神の義に与る (ローマの信徒への手紙 3章21~31節)
ローマの信徒への手紙3章21~31節はこの書簡の心臓部とも言われるほどに重要な箇所です。既にパウロは1章16、17節において「信仰による義」の命題を掲げましたが、その内容がここに展開されているからです。カトリック教会の熱心な修道僧であったルターは、身体を傷づけるほどの修業を重ねることによっても、約束されている心の平安を得られず、悶々とする中で、「救いは行いによらず、ただ信仰による」ことに気付かされ、教会改革を提言したのですが、却って、教会から「プロテスタント(抗議する者)」の汚名を浴びせられ破門されたのでした。
ルターは聖職者独占の聖書(ラテン語訳)を一般の信徒の手にも渡すために日常ドイツ語に翻訳するときに、ローマ3章28節の終りの言葉を「人が義とされるのは、・・・信仰のみによる」と敢えて「のみ」を加える意訳を行い、「救いの条件に行いも大切」との考えを断固排除したのでした。
私たちは、どこか「神の義」という「聖さ」「正しさ」を設定して、そこに自分が到達したいと願っているのかもしれません。しかし「神の義」とは私たちへの要求や命令ではないのです。そうではなく、神から罪人の側に注がれている動的な恵みの出来事です。それが「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」(同24節)とあるメッセージ、福音なのです。神は私たちに「義」を要求するのではなく、罪人の罪を御自身の側で償い、罪の赦しを実行してしまわれたのです。これこそ神が御子イエスにおいて示された「神(ご自身)の義」なのです。
信仰とは、この「神の義」に与ること、それ以外の何物でもありません。これが、「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」(同21、22節)との約束の言葉です。良き行いは大切です。しかし、行いでは達し得ない真の救いが、既に神の側で起こされ私たちに与えられている、これこそ私たちを支える福音なのです。
TK生