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自由と愛を考える (コリントの信徒への手紙一 8章1~13節)

イスラムの教祖ムハンマドの挿絵を風刺画として掲載したフランスの新聞社がテロ集団に襲われ、多数の死傷者を出した事件をめぐり、フランスをはじめ世界各地で「表現の自由」を掲げて同紙を支持する大規模なデモが行われました。同社は事件後の最新版においても同様の風刺画を記載して700万部を売りさばくとのことです。テロ行為に対する嫌悪とは別に、言い表し得ない悲しみと虚しさを覚えます。

神は人を生かす上で「自由」を保障されました。何故なら神と人、人と人の関係構築において、自由意思は必須の大前提であり、愛の関係性は自由なくしてはあり得ないからです。たとえ国家であれこの自由を奪うことは許されません(日本は憲法20、21条で信教、言論の自由を保障!)。

しかし、この自由を行使する上で重要な条件があります。それが「善悪を知る知識」です。神は、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16、17)と命じ、自由を保障するとともに、自由を行使する人間が「善悪の知識」を思いのままに持つことを禁じました。

教祖の顔を描くこと、それは私たちには問題にならない行為です。しかし、少数の人であれ、神や教祖を描き表わすことも目にすることも忌み嫌う人がいる時に、その人々の心情を無視して彼らの面前に自分たちの「知識」を振りかざして良いものでしょうか。「表現の自由」は国家が市民に対して保障する権利であり、風刺画もその範囲で許されるものでありましょう。しかし、この権利が「知識」を持つと自負する人々により、少数者に強制されるとすれば、もはや風刺の領域を超えて暴力と化すのです。

パウロは記しています。「『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」(Ⅰコリント8:1)と。パウロは、自分が到達した「正当な知識」でも相手に届かないなら、それを振りかざさないのです。権利としての自由であっても、愛というフィルター越しに現わしてこそ真価を発揮するからなのです。

TK生

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