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「荒野の誘惑」 マタイによる福音書 4章1~11節 大野裕昭

今朝の聖書箇所の冒頭に、「悪魔から誘惑を受けるため」ということと「霊に導かれて」と書かれていることは矛盾するように見えます。しかしこの両面を見据えておかなければならないでしょう。それは、イエス・キリストが誘惑を受けることには、神の意志があったということです。イエス・キリストは宣教を始められる前に、まことの人間として私たちと同じように、いや私たちが受ける以上の大きな誘惑を経験したのです。

「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)。このことはそれだけで、私たちにとって大きな慰め、励ましであり、力です。主イエスは私たちと共に、世のただ中におられ、誘惑を経験し、そしてそれに打ち勝たなければならなかったのでしょう。1節では「悪魔」と書かれているのに、3節では「誘惑する者」と言い換えられています。悪魔は、よく漫画や映画などで、するどい牙があったり、おどろおどろしい羽やしっぽが生えていたりして、いかにも「悪魔でございます」というわかりやすく登場するわけではないようです。変幻自在かもしれません。それが悪魔だとわからないところにこそ悪魔性というものがあるのではないでしょうか。みなさんは、「悪魔は名刺を渡さない」という言葉を聞いたことがありますか? 空腹どころか、もう飢え死に寸前の主イエスのところに、悪魔はまるで賢い助言者のようにして近づいてきたのです。

ところで悪魔などというのは、時代錯誤だと思う人もあるかもしれません。しかしそういう人でも、この世界には、私たちを堕落させ、敵対させようとする力、しかも人格的な力が働いているのを感じてしまうことはないでしょうか。神から引き離そうとする力といってもよいでしょう。聖書では、その人格的な力を悪魔と呼んでいます。

       大野裕昭(西南学院大学神学部神学専攻科)

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