心を合わせて熱心に祈る (使徒言行録1:12~26)
- 金子敬
- 2015年5月15日
- 読了時間: 2分
復活後の40日間、主イエスは弟子たちにその御姿を現わしておられたのですが、イエスが天にあげられ、彼らの視界から見えなくなってしまうと、「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒1:14)、と記されています。ここに、イエスの昇天から聖霊降臨までの10日間、弟子たちの祈りが、正に真剣そのものになっていたことが分かります。もはやイエスにお会いすることができなくなったからこそ切実な祈りが始まったとも言えるのです。断絶と空白の10日間の意味がここにあると思われます。
祈りに関しては、主イエスにより、「自分の部屋に入って戸を閉め」(マタイ6:6)て独りで祈る祈りが推奨されています。これが祈りの基本です。この基本を忘れたところで「集まって祈る」ことは危険です。勿論その逆も真なりでしょう。個人で祈る者が教会(集りの中)でも祈り、教会で祈る者が個人でも祈る、主の御心を求める上で、このバランス感覚は非常に重要です。
「熱心に」は「熱狂的に」ではありません。「着実に」の意味でもあります。冷静さの中で、心が常に神と世界に開かれているということです。神からの導きを求めることが、人々とともに歩むことに結ばれていないとき、その祈りは、「祈ること」を目的化する誤りに陥るのです。要注意です!
弟子たちが「熱心に」祈りを合わせた結果、彼らは何を始めたでしょうか。何と彼らは集団の破れの修復、補強をしたのです。ユダを失い11人となってしまった弟子集団に、もう一人の弟子を立て、補完することを考えたのです。ここには実に冷静な判断が働いていたことが分かります。しかも復活の証人に相応しい人は誰かを考え、協議した上でヨセフとマティアの2名を推薦します。しかし、全てを自分たちの判断で決めるのではなく、最後の判断は主に委ね、祈りの後、くじ引きで決したとあります。これが祈りの着地点なのです。実に理路整然とした責任性のある道のりを経て、しかも神の働きに最終決定権を渡して、「その日」(使徒2:1)に備えたのです。正に祈りの群れ「教会」の真髄を見る思いがするではありませんか。
TK生
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