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交わりの神に結ばれて (マタイによる福音書28:16~20)

旧約の時代、人々が大切にした神の言葉は「シェマ(聞け)、イスラエル」と「十戒」でありました。「シェマ、イスラエル」には「我らの神、主は唯一の主である。」(申命記6:4)とあり、唯一神への帰依が謳われています。ところが新約聖書になると、神は「唯一」と共に、「父、子、聖霊」としても登場します(→Ⅱコリント13:13/「パウロによる祝祷」参照)。

伝統的には「三位一体」と呼称されてきましたが、最近の神学界では、その表記の可否も含めて吟味されているようです。おおよそ、聖書にある内容から推測すると、神はご自身を「人間イエス」において啓示し(ヨハネ1:14、18)、その愛と救いを彼の生涯、特に十字架と復活を通して現わされました。私たちは、このお方に出会うことによって、自分の罪を示され、悔い改めを通して、「イエスは主である」と告白するに至ります。そして、この「主告白」を起こさせるのが聖霊なる神であると記されています(Ⅰコリント12:3)。

又、主イエスが「天の父よ」と祈りなさいと教えられた(マタイ6:9)ことで、神は私たちにとって「父」であると知らされ、私たちはイエスに結ばれた神の子たちとなるわけです。このように、神は唯一でありつつ、「父-子-聖霊」としてご自身を現わされた「交わりの神」である、とも言えるのです。これに関連して、マタイ福音書28:19には「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け」とありますが、この「名」は単数形です。「父」「子」「聖霊」が別々なのではなく、結び合う一つの神と言うことです。「名によってバプテスマを授け」は「名の中へとバプテスマする」の意味です。即ち、父・子・聖霊なる交わりの神の中に一体化させる。これが教会の交わりへの入会儀式です。

愛の交わりは結び合わされることの中で起こされます。異なるお互いが和解し合い、一つになる。十字架と復活で現わされた主イエスの愛に結ばれて、すべての人が愛の神、交わりの神に結ばれる。これこそが、「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と言われる所以です。すべての人々と結ばれる神の民に、イエスは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と約束して下さったのです。

     TK生

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