愛されているのですから (コロサイの信徒への手紙3章12~17節)
- 金子敬
- 2015年7月31日
- 読了時間: 2分
毎年この季節になると「平和」という文字が飛び交います。しかし、昨今よく話題になる「積極的平和主義」には違和感を禁じ得ないのです。自衛隊を友好国の戦闘にも参加させる「積極策」で有事に強い抑止力となる、というものです。しかし、このような「強力な軍事力」をもって「積極的平和」と語るのは世界的に失笑を買うものでしかありません。
既に「積極的平和」に関する国際的定義は、平和研究の父、ヨハン・ガルトゥング(1930-、ノルウェー)によって確立しています。それによれば、「戦争のない状態」を「消極的平和」とするのに対して、「戦争がなく、貧困・抑圧・差別などの構造的暴力のない状態」を「積極的平和」とする、とあります。主イエスが「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5:9)と語る言葉も正にこのような「積極的平和」理解を裏付けます。従って、争いの根となる「構造的暴力」状況を常態化させ、その犠牲の上に安全安心と豊かさを説く為政者には、真の「積極的平和」を語る資格はないのです。
今年度、古賀教会は「キリストの平和を伝える群れとして歩む」を年間標語として掲げました。しかし、平和を伝えようとするとき、声高に「戦争反対」「暴力反対」と語りだしても、語る者自身の日々の生活が、それと乖離しているなら、その言葉に説得力はありません。この標語の出典であるコロサイ書3:12~17は、その冒頭に於いて、平和を伝える者の資質について、キリストにある現実を想い起させています。それが、「あなたがたは愛されている」と言う宣言です。平和を説くときに、自分も相手も「神に愛されている」と認識するところから始めなさい、と言われているのです。
キリストの十字架の贖いによって、神の愛の中に迎え入れられたお互いであること、ここから「構造的暴力」の加害者でもある自分と向き合えるのです。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈ることができるのです。「積極的平和」とは、「神の愛に生きる」と言うことに尽きます。「愛されているのですから」との言葉を受けとめて、今も苦しむ世界に心を寄せ、この道に歩み出して参りましょう。
TK生
コメント