美しい人生~永遠を想う思い~ (ヘブライ人への手紙 11章8~16節)
- 金子敬
- 2015年9月18日
- 読了時間: 2分
神が人間に与えられた能力で最も大いなるものは「永遠を想う思い」ではないでしょうか。旧約聖書、コヘレトの言葉3:11には「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」(口語訳/伝道の書)と記されています。この言葉には、人間にとって本当に美しい生き方、価値ある生き方が何であるかを考えさせる神の知恵が隠されているように思います。
手で触れる世界、目に映る世界も重要なのですが、これを超えた世界へと心を向けること、そこに「永遠を想う思い」が起こされます。更に、今の自分の生き方が「永遠」という尺度でどう見えるのか、価値ある生き方なのか、想像する能力が私たちには与えられているのです。
「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」(詩編90:10)とありますが、この限られた人生を、ただ自分だけの世界で、目に見える物質的な欲求のためにだけ費やすのか、それとも「永遠」の中の一節(ひとふし)と受けとめ、悠久の時の中に自己を見出して今を生きるのかで、その差は歴然とすることでしょう。
手許にある富を自分の物だと思いこみ、更にこれを増やさなければ不安でたまらない、そのような貪欲は何と息苦しいことでしょうか。もし、すべての人が「永遠」の中にあると気づくならば、人生の長短など大きな問題とはならず、大いなるものの手にある今を喜ぶ「美しい人生」へと解放されるのではないでしょうか。「時」は神のものです。然り、神はキリストにおいて「復活」を現わして、永遠を想う思いを確固とされたのです。
神の御許に召された人々を想う時、私たちが一体何を大切にして生きているのか、問い直されているのではないでしょうか。後の人から、「この世で名声を博し富を築いた○○さん」ではなく、「永遠の世界を信じ、神の愛に生きた○○さん」と語り伝えられる人は幸いです。
TK生
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