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「閉ざされた一人一人に」 マルコによる福音書3章31~35節

  • 泉選也
  • 2015年10月17日
  • 読了時間: 2分

教会では、血縁関係によらず、イエスをキリストだと信じる者同士が互いに兄弟姉妹と呼び合い、そんな共同体を神の家族として捉えています。教会は、良くも悪くも色々な人がいます。それは自分が好きじゃない人もその中にはいるということです。でもある意味では、そういう人とも一緒にいることができる奇跡の場所でもあると考えることができます。教会は、嫌いな人がいるくらい多様で開かれた場所なのです。だから、自分と気の合わない人のことさえも神の家族とし、愛する兄弟姉妹と呼ぶ。「神の家族」という言葉には大変な意味が込められているわけです。

 今回の箇所はそんな家族にまつわる物語です。群衆がイエスの教えを聞いていたところへ、イエスの母と兄弟たちがやって来ます。何のために?…それは連れ戻すため、取り押さえるためでした。ここで描かれているイエスの家族の姿勢や態度は、決して好意的なものではありません。むしろ、対立するようなものです。「人をやってイエスを呼ばせた」という仕方や、教えを聞いている人々の中には入ろうとせず、「外に立っていた」というのは、イエスの教えと行動には同調できない、どこか家族というより部外者の立場を取っていることを示しています。

 にもかかわらず、イエスを捜しに来たのは不思議なものです。おそらく、家族から見てもイエスが問題に思えたからこそ、面倒なことに蓋をするかのように、自分たちの関係の中だけに彼を閉じ込めておくことに決めたのでしょう。しかし、自分たちだけの中に閉じ込める、関係を閉ざしていくのではなく、関係を増やしていくことが本当は重要なのです。イエスは言います、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と。閉ざされた家族ではなく、血も越えた開かれた家族をイエスは示して、招いておられます。今、苦難に満ちた世界の中、閉ざされた一人一人に向かって「兄弟なんだ」「姉妹なんだ」あるいは「母なのだ」と呼んでくれる方がいる。「私の家族はここにいるよ」とイエスが言われるということは、また同じことが私たちにも許されています。私たちも「私の家族(あなたの家族)はここにいるよ」と言うことができるのです。まさに教会もそういう場所でありたいと思うのです。

               西南学院大学神学部神学博士課程2年  泉 選也(いずみ えりや)

 
 
 

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