万軍の主の熱意が (イザヤ書 6章1~6節)
- 金子敬
- 2015年12月4日
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人類の歴史を振り返るとき、どの時代をとらえても争いごとが繰り返されています。聖書はこの人間の姿を「罪」と言い表します。喧嘩をしたい人などいないはずなのですが、現実には自分が少しでも他者よりも優位にありたいと願い、そこから争いがおこります。仲良くしましょう、愛し合いましょう、との気持ちはあるのですが、その中でも「自分が不利にならない限りにおいて」との条件が付くのです。一つ屋根の下にある家庭においても、国や地域を超えた国際社会においても同じです。
親子や家族においては、多少の不利益があっても乗り越えることが出来るでしょうが、国際社会となるとそうもいかないのです。今日、世界を震撼させている「イスラム国」の出現は、これまでの国家と言う枠組みさえ通用しない問題を突きつけています。経済的に圧倒的な力を誇る国々は、その既得権を譲ることを良しとせず、厄介な問題には力を持って(武力をもって)これを封じ込めようとします。いわゆる「安全保障」という傘の下での安全安心にこだわります。しかし、富の偏りという構造的問題を残したままの力による均衡は非常に危ういのです。この問題の根源が人間の「罪」にあるからです。
しかし、神のもたらす救いの出来事は、不平等を前提にした人間のわがままな勝手な要求の下には現わされませんでした。イザヤが預言したメシア(救い主)は、世界で最も弱く小さくされたみどりご(嬰児)の誕生において現わされると言うものでした。このみどりごこそ、神の力、まことの平和のしるしなのです。一番弱い者を中心に置くところでこそ、神の平和(シャローム)が確立するのです。イザヤはキーワードとして「公平と正義」を語ります。まさしく全ての人が構造的に平等であるところに「平和」があるからです。
イエス・キリストは最も小さい者としてこの世に誕生し、私たちの罪を引き受け、十字架上で一切の負債を帳消しにされました。十字架は神の痛みの極みですが、正に、神ご自身が、ここで全ての人にいのちを与えることを決意されているのです。真に「万軍の主の熱意がこれを成し遂げ」られたのです(イザヤ9:6)。然り、クリスマスは神の熱愛そのものなのです。
TK生
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