「御言葉に聴きつつ年の瀬を」 詩編119:105~106
- 内田章二
- 2015年12月26日
- 読了時間: 2分
今年最後の主日礼拝を感謝いたします。
さて、教会に集ったことのない人たちにとって、私どもの生き方は、一風変わっていると映っているかもしれません。それは、ひとことで言えば「神第一」の生活がどうも理解出来ない、ということではないでしょうか。私たちの日々の歩みは、どんなに忙しくても礼拝に始まり礼拝に終わり、祈りに始まり祈りに終わり、讃美に始まり讃美に終わる、そのような生活を送っていますが、教会を一歩離れれば、やはり今日は「大掃除」が第一になされるべきことなのです。そのような現実の中で、私どもは信仰が単なる生活の「助け」や「飾り」ではなく、「生きる力」そのものだ、と確認したいのです。果たして私たちはそのような信仰に立っているでしょうか。
今朝の聖書で詩編の記者は、「あなたの御言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯」-105節-と言っています。これは、詩人の信仰の喜びを言いあらわした、まったく曇りのない告白と言えます。けれども、この詩編を綴った詩人は非常に厳しい状況のただ中におかれていたことを忘れてはなりません。ご一緒に読んだ箇所に続く107節で詩人は「わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり命を得させてください」と言っています。この詩人は、イスラエルが水面に漂う葦のようにあちらの国から、こちらの国から支配を受けて、まったく荒れ果てた国土の真ん中に立って、先ほどのような信仰の告白をしているのです。「何が神さまだ。何が天国だ」と叫びたくなるような状況の中で、この詩人は「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」と言って、確かな望みを置いているのです。これはひとつの「証」です。
ついこの間、私たちはクリスマスを共に喜び祝いましたが、ヨハネ福音書の記者もキリストの到来を「世に来られた光」と告白しています。光として来られたキリストが私たちの人生に伴って下さり、御言葉を通して今日も私たちに語りかけて下さいます。この「聖書の信仰」に堅く立って、来る年も歩み続けようではありませんか。
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