心地の良い教会 (マルコ福音書 2章1~12節)
- 金子敬
- 2016年1月15日
- 読了時間: 2分
先日、わたしたちの教会では「ビジョンを聴き合う会」が開かれました。その会話の中で、「居心地の良い教会」という言葉が私の心に残りました。これは古賀教会の現状を言い当てている言葉でもあり、まさに心地よく受けとめられる言葉でありました。しかし、はたと気づかされたのです。それは「誰の」居心地なのか?「わたし(たち)」の居心地のことだったのではないか、と。そして気になり始めたのです。では、戸惑いつつ勇気を出して来て下さった人の居心地はどうだったのか? 更にその方に寄り添われる主イエスの居心地は?・・・と考えさせられたのでした。
イエス様の公生涯の第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)でした。そこで主イエスは悔い改めを迫るのです。教会はこの世にあって疲れている人々の休み場でもあります。しかし、それは再びこの世の戦いに出ていくための備えの休息なのであり、お互いの楽しい交わりや慰め合いなどに留まることを意味しません。「わたしたちの」居心地も大切でしょうが、教会は傷つき苦しむ人々を受け入れるホスピタルな場なのであり、その元凶である罪の指摘と、悔い改めた者への赦しが宣言されるところ、即ち、神の御業を遺憾なく発揮できるための主イエスにとっての居心地(働き心地)が重要なのです。
主イエスとそこに集う人々の中に、突然、土埃とともに剥がされた屋根から吊り降ろされた病人の物語(マルコ2:1~12)は、教会が静寂や上品な宗教心を涵養する世界とは異なることを指し示していると言えましょう。集まる人々にとってそれは「非常識への怒り」に包まれた「居心地の悪い」場となったはずです。しかし、そこで神の国の出来事が起こされたのでした。主イエスの心をとらえたのはこの病人を担いできた4人の男たちの信仰であった、とあります。一人の人の救いのために行動せずにはいられない彼らのなりふり構わぬ信仰こそが、主イエスから力を惹き出したのです。今日の教会も、求める者と、導く者、そして御業を起こされる主イエスにとっての居心地の良さが求められている所以なのです。
TK生
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