「誘惑を受けられたイエス」 ルカによる福音書 4:1~13
- 内田章二
- 2016年1月9日
- 読了時間: 2分
マタイ、マルコ、ルカの三福音書は、イエスが宣教を開始される前に、まず悪魔の誘惑に遭われたと書いています。多くの人は、「悪魔」と聞いただけでキリスト教に対して拒否反応を起こすかもしれません。けれども、この朝登場する悪魔は「ディアボロス=誹謗・中傷する者」という性格を持った存在として描かれています。神を誹謗中傷し、人と人とが互いを誹謗中傷することを促すのが悪魔の役割と言えます。
ところで、神の御子であるイエスが誘惑に遭うというのは不思議な話です。しかし、現実にはイエスほど誘惑に遭った人は他にいないのです。それは彼が、神から託された働き(すべての人の救い)のために世に来られたからにほかなりません。イエスは常にご自分を十字架への道から逸(そ)らそうとする悪魔の誘惑にさらされていたのです。
それと同じように、私たちもイエスのあとに従おうとするとき、彼が受けたと同じ誘惑にさらされるのです。悪魔はしばしば人間が本質的に持っている欲(肉の欲、権力欲など)に働きかけて来ます。けれども、注意しなければならないことは、キリスト教信仰は「欲を捨てる」ことを求めてはいないという点です。「最近、意欲が出ないんだ」と聞けば、「どこか悪いんじゃない?」と自然に尋ねるように、欲は人を生かす「力」という面があります。ただ、それが人生の最終目的となることが問題なのです。
「人はパンだけで生きるものではない」-ルカ4:4より-とイエスは言われます。パンがなければ私たちは生きていくことが出来ません。けれども、パンを得ることが生きる目的になるとき、私たちは争ってそれを獲得する必要が出てくるし、そこでは必ず力ある者が勝利を治めるという結果を見なければなりません。しかし、私たちが霊の食物である神の言葉に耳を傾け、いつも神に心を向けて祈るときに、「むさぼる」ことから「分かち合う」ことへ、また「排除する」ことから「受け入れ合う」ことへと導かれていくのです。それが信仰者の目指す「神の国」の姿なのです。
この一年も、ごいっしょに聖書の御言葉を聴いていきましょう。
協力牧師 内田章二
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