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キリストの友、喜びの共有者 (ヨハネによる福音書 15章11~17節)

  • 金子敬
  • 2016年1月1日
  • 読了時間: 2分

「世の中は起きて稼(かせ)いで寝て食って、後は死ぬを待つばかり」とは一休禅師の狂歌とされていますが、これは「あなたは何者で、何のために生きるのか」との禅問答でもありましょう。

ただ何となく生きているだけで死を待つのでは余りに空しいと言わねばならないからです。

聖書は、私たちが「何者」であるかを繰り返し語っています。創世記では人間が「神の像(似姿)」(創世記1:27)に創造されていると記し、人間の尊厳の根拠を「神」に置いています。詩編が「神の子らよ、主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ」(詩編29:1)と記すのも、人間が「何者であり、何のために生きているか」を私たちに明示していると言えましょう。

ところで、主イエスは全ての人が「キリストの弟子」(マタイ28:19)になることを求めました。クリスチャンとは「キリストに結ばれたもの」のことですが、弟子となった者は、師から学び、師のように生きる者のことです。小さなキリストになり、キリストの愛に生きることが期待されています。

ヨハネ15章の「ぶどうの木とその枝」の譬においても、そこに結ぶ実、即ち、キリストの愛に生きること、互いに愛し合うことが到達点です。キリストの弟子になり、教会に結ばれて、愛の何であるかを学び、実践する。これこそが「神の像」「神の子」としての自分自身の存在認識です。

更に主イエスは私たちに、「わたしの友」(ヨハネ15:14)と呼びかけます。なぜ「友」なのでしょうか?その前に、「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(ヨハネ15:11)とあるように、喜びの共有は主従関係においては十分発揮できないからです。自由な交わり、友であるからこそ一緒に喜びを分かち合えるのです。

「あなたは何者」と問われて、私たちは「キリストの友」と答えることが許されています。教会に結ばれ、キリストの喜びの交わりに招き入れられています。「神の像」「神の子」「キリストの弟子」、そして「キリストの友」。これが「自分は何者?何のために?」に対する答えです。

ここに、真の人間としての自由と尊厳、更に、愛と喜びの共有が起こされるのです。

                                                  TK生

 
 
 

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