「恵みに応えて生きる」 使徒言行録 20:22~38
- 内田章二
- 2016年3月11日
- 読了時間: 2分
今朝は、パウロが第3回目の伝道旅行の途中、ミレトスでエフェソの教会の長老たちを招いて語った説教からメッセージを頂きます。その冒頭でパウロは「今や、わたしは霊に促されてエルサレムヘ行きます」-使徒20:22より-と言っています。自分がエルサレムに行くのは、聖霊に迫られ、促されて行くのだ。もちろん、自分にもそうしたくない思いはある。しかし自分にはどうしようもない、という真実を語っているのです。
聖霊の迫りとは、それが自分にとって損だとか、つまらないことだと思っても、なぜかそうせずにはいられなくなる・・・、そういう力です。その力が自分のいのちも、そのほかいろいろなものも顧みずに私たちをそちらの道に導いていく。「聖霊の迫り」とはそのような力のことではないでしょうか。パウロは、「ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」と言っています。普通なら、それでは行くのをやめようと思うところですね。
それにしても、なぜパウロはそのように迫害を受けなければならなかったのでしょうか。それは、私たちこそが神に選ばれ、律法を与えられたと信じて疑わなかったユダヤ人たちにとって、異邦人が律法なしに救われるということは、彼らが何千年も命のように守ってきたものを踏みにじられることであったのです。そこに、パウロに対する激しい敵意が燃えた理由があるのです。
しかしパウロは、イエス・キリストの恵みを思って、十字架の贖いによって律法の世界から解き放たれたことを語らずにはいられなかったのです。彼はいのちを差し出してこの福音を宣べ伝えたのです。
パウロの言葉と行動を通して、御霊の迫りの中で歩む道は、決して順風満帆の道ではないということを知りました。そこには困難があり、迫害があるかもしれない。けれども、そこにこそ、我らの生きる道があるとパウロは言うのです。神の愛の語りかけを聴き、主イエスに伴われて歩むときにのみ、私たちは本当の意味で意義ある人生を送ることが出来るのです。
協力牧師 内田章二
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