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受難のイエスを記憶する (マルコによる福音書 14章32~42節)

  • 金子敬
  • 2016年3月18日
  • 読了時間: 2分

主イエスの弟子たちは、イエスの最期においても「メシア」(救い主)の意味を誤解したままでした。彼らは相変わらずダビデ時代のイスラエル国家の繁栄を期待し、その時には自分たちもそれなりの地位に就けるものと考えていました。主イエスが三度にわたり弟子たちにご自身の受難を伝えている(8:31~,9:31~,10:32~)その期にもかかわらずです。ここに主イエスがゲッセマネの園に弟子たちを伴われた理由があるようです。この祈りの場面で「恐れ」「もだえる」メシアの姿、「死ぬばかりに悲しい」哀れな救い主の姿を間近で観察させ、記憶させているのです。

イエスは祈ります。「アッバ、父よ」と。これは幼児語の「お父ちゃん」とも訳される表現で、マルコ福音書のみが記すところです。何の力も無い者の切実な叫びです。また、「あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけて下さい。」と切願しつつも、なお、「御心に適うことが行われますように」と、結果を神に委ねるしかない、頼りないメシア像を露わにしています(マルコ14:36)。弟子たちはこの苦悩するみじめなイエスの姿を目の当たりに記憶させられるのです。しかし、この主の苦しみの祈りに立ち合わされながらも、彼らは眠気のために目を覚ましていられません。

ついに、「イエスは三度目に戻って来て言われた。『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。』」(同14:41)と記されます。「眠っている」「休んでいる」は原文では命令形です。「まだ」は「この余りの時に」と言うような意味の言葉です。即ち、ここでのイエスの言葉は、弟子たちの態度をたしなめると言うよりも、弱さの中にある弟子たちを、そのままに受け入れ、「もうしばらくは、眠っていなさい、休んでいなさい」と、「心は燃えても、肉体は弱い」(同14:38)弟子たちを知り尽くし、受容しているのです。「もうこれでいい」は商取引用語で「取引完了」の意です。主イエスは、いよいよ弟子たちから切り離され、裏切る者へと引き渡されるのです。この衝撃的な事実を経て、メシアの働きが成し遂げられ、罪人の救いが完成するのです。

                                   TK生

 
 
 

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