神の存在証明 (ヘブライ人への手紙 1章1~4節)
- 金子敬
- 2016年4月17日
- 読了時間: 2分
わたしたちは神をどのようにして知ることが出来るのでしょうか?幼少期から“唯物論”に基づく教育を受けているわたしたちは、ともすると「神は存在しない」との見識を示すことが知識人として当然であるかのごとくに振舞います。しかし同時に、多くの人々が宗教心(信心)を大切にし、何らかの宗教に関心を抱いていることも事実です。即ち、頭では神を否定しても心の中では否定できないのです。では、神を、そのように、理性と感性の領域で別々に受けとめても良いものなのでしょうか。頭では神を否定し、心では肯定する・・・、これでは、「曖昧で何を考えているか解らない日本人」との印象を抱かれるのも当然でありましょう。
確かに日本人は「感性」を大切にしているのかもしれません。しかし、その感性が曖昧さの上に成り立つのでは心もとないです。やはり、その感性が理性に裏付けられてこそ、輝くのではないでしょうか。
では、神を知る道があるのでしょうか?イエス・キリストは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と言われました。確かに普通人にはい言い得ない「大言壮語」「誇大妄想」とでも言われそうな表現です。しかし、聖書は一貫して、神の御子、イエス・キリストが父なる神へとわたしたちを導く唯一のお方であると断言しています。そして、わたしたちも、このお方にあって、神に結ばれていることを体験的に知っているのです。
ヘブライ人への手紙の冒頭に、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」とあります。神を知る、それはイエス・キリストを知ることと一つなのです。「御子によって」とは「御子において」と訳せる言葉です。御子イエス・キリストの存在(ことばと行為)そのものこそが、神の存在証明なのだと語るのです。
そして、このお方を「わたしの主」と告白する生き方、理性と感性が御子に結ばれ一つとされるところにキリスト信仰があるのです。
TK生
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