幸せって何だろう (マタイによる福音書 5章1~12節)
- 金子敬
- 2016年4月22日
- 読了時間: 2分
「幸せでありたい」とは全ての人の求めるところです。この場合の「幸せ」は、現状には満足せず、もっと良い生活があるはずだ、との「欲求」、良い意味で言えば積極的な「向上心」から来るものです。要するに、「今以上の」という望みが叶えられるなら、そこに「幸せ」があると考えているのです。しかし、誰しも、その願いが叶えられた時、必ずしも「幸せ」であるとは限りません。常にそれ以上のものを追い求めることになるからです。これはその人の人生観にも反映されることになります。
イエス様の山上の説教冒頭にある「幸い」についての教えは、あまりにも有名で、キリスト教徒でなくても知っておられるかもしれません。そこでイエスさまは、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)と語り始められました。「心の貧しい」と言う表現には躓きを覚える方もあるかもしれません。「心の豊かな」ではないのか?と。聖書にはしばしば「躓き」が置かれています。そこで、「おや、これは何だろう」となる訳です。並行するルカ福音書6:20では「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」と記されます。そうなると、更に躓きます。「貧しさ」そのものが幸いとは何事か!と。
しかし、それに続く「天の国(神の国)はその人たちのものである(現在形!)」が重要なのです。原文には「何故なら」を表す接続詞があります。何故に幸いか、と言うなら、既に、今、「神の国」即ち、神の支配の中に包まれているからだ、と言うのです。貧しい人、それは自分の力にはもはや頼れない、神に縋りつくしかない。自分の力による可能性ではなく、神の可能性に身を任せてみよう、となるからです。発想の大転換です。
神の御手の中にある幸い!これに気付く時、わたしたちは大いなる力に導かれて、悲しむ人たちに寄り添い、平和を実現することへと積極的に歩み出せるのです。自己中心、自己実現を追い求める「小さな幸せ」から解放され、神の御業に参加し、隣人愛に生きる「大いなる幸せ」を歩み出すことが可能となるのです。あなたも天の国の一員なのですから。
TK生
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