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殉教者からの問い (使徒言行録 1章6~9節)

  • 金子敬
  • 2016年4月29日
  • 読了時間: 2分

先日、教会から休暇をいただき、久しぶりに夫婦で長崎の町を歩いた。長崎はキリスト教会も多いが、寺町と言えるほどに多くのお寺が町をとり囲んでいる。それは秀吉の時代に始まるキリシタン弾圧の歴史の中で、多くの教会が取り壊されて寺院に建て替えさせられたことが一因とも言われている。現在、キリスト教弾圧の歴史遺産は観光名所となって多くの人を集めているが、キリスト者としてそこを訪れると、観光客にはなり得ない重たいもの、殉教者からの問いかけに晒される。

初代教会が誕生したとき、それはキリスト教が順風満帆に広がって行ったのであろうか。確かに野火のごとくに広がった。しかし、キリスト教の伝播は、その福音の真実と愛の故に広まったという面と、迫害者から逃れるために離散した人々が離散先に住みつき根を張った、という両面があったと考えられる。主イエスが「聖霊が降ると、力を受け、エルサレムから地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8/一部略)と言われるとき、それは「殉教者」としての道も語られていたのである。「証人」と訳されたマルテュス(ma,rtuj)を調べると、「自らの一生を証しのためにささげつくした人」とあり、英語で殉教者を示すマーター(martyr)はこのギリシャ語の音訳である、と解説されている。(織田昭/ギリシャ語小辞典)

新約聖書に登場する「キリストの証人たち」は、単に、この信仰が良さそうだからキリスト者になったのではない。正に「命がけ」でキリスト者になったのである。長崎駅から徒歩で15分ほどにある西坂公園には、外国人6名を含む「二十六聖人殉教者」の等身大のブロンズ像がある。中央には12歳、13歳の少年もいる。皆、秀吉の命で処刑された聖徒である。

信仰を告白するとは、告白の文章を作成すること以上のこと、キリストの証人となることである。しかし、それは人間的な努力や信心力で出来るものではない。正に、それをなさしめる力、それがここに注がれている聖霊なのである。今、我々に「我は聖霊を信ず」と応答し告白する信仰があるだろうか。少年たちの眼差しを前にたじろぐ自分がここにある。

                                  TK生

 
 
 

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