「キリストの愛を伝える教会」 マタイによる福音書 10:1~15
- 内田章二
- 2016年5月6日
- 読了時間: 2分
この朝は、イエスが12人の「使徒」を選び、宣教の働きに遣わす箇所からメッセージを聞きましょう。
さて、イエスは5、6節で「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と言われています。この言葉には「ちょっと待って」といいたくなる部分があります。イエスは十字架に死なれ、復活ののち、天に帰られる前にこう言い残されました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」-マタイ28:19より-。
もちろん、福音はユダヤ人だけのものではありません。けれども、イエスは弟子たちにユダヤ人の中で病んでいる者、悲しんでいる人がいたら、まずその人を訪ねるように言われたのです。このイエスのメッセージを私たちも聞いているのです。私たちはユダヤ人ではありません。けれども「新しいイスラエル」といわれる教会を大切にしているひとりひとりです。その私たちがまず福音をしっかり聞いて、共に祈りあい支え合っていく中で互いが救いを喜び、整えられていくことを、イエスは願っておられるのです。自分自身が喜び、満たされていなければ…、また「本当にうれしい知らせ」でなければ、人々にお知らせしてもどこかむなしいものがあります。
もう一つのこととして、イエスのメッセージは、私たち一人一人に宣教の働きが託されていることを教えています。「私は何もできませんから」という言葉を聞くことがあります。けれども、神は「あなたでなければ」、そう言って私たちを招いておられるのです。パウロも「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」-エフェソ4:16-と言っています。教会は「十字架のある建物」と考えがちです。けれども、基本は「イエス・キリストを中心とした愛の交わり」です。そしてこの交わりは、私たちがイエスから託されて共に建て上げていく「交わり」なのです。
内田章二(古賀教会員)
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