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「愛」はこうして届けられた (ローマの信徒への手紙3章19~26節)

  • 金子敬
  • 2016年6月25日
  • 読了時間: 2分

先週の礼拝で、「なくてはならないものは」と題してシャフナー先生(西南学院大学学長)からメッセージをいただきました。その答えは「愛」、しかも、イエスさまにおいて現わされた「ギブ&ギブの愛」であると示されました。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:10)の聖書の言葉を引用して、神が私たちに与え尽くされた愛、十字架の愛を語って下さいました。

今日は、その愛がどのようにして私たちのところに届けられているのかをパウロが記したローマの信徒への手紙から読み解いて参ります。実はパウロは自分の力で神に近づく道を求めていました。しかし、どれだけ努力しても自分の中にある問題(罪)を自分自身で解決することは出来ませんでした。彼は遂に「正しい者は一人もいない」との言葉に出合い(ローマ3:10)、自分の正しさは、自分自身の力で獲得するものではなく、神の一方的な恵みの出来事によって、既に自分のところに届けられていたのだと気付かされたのです。真に、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」(3:24)と気付かされたのです。実に、神の御前で「義」(正しい)とされるのは、自分の義を通してではなく、「神の義」「神の正しさ」に由来していると言うことなのです。

では、神の義とは、人間をあるがままに受け入れる無条件の義なのでしょうか。確かに、神は人間の側に条件を付けませんでした。しかし、神の側では無条件ではなかったのです。即ち、大きな犠牲を支払っておられたのです。神の独り子イエス・キリストが私たちの罪を引き受けて「罪に対する罰」を引き受け、罪過を帳消しにして下さっていたからです。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。・・・神の義をお示しになるためです。」(3:25)とある通りです。

私たちは、このようにして完璧に整えられた愛のお届ものを、感謝して受け取るだけなのです。恵みによる救い、と言われる所以です。

                                   TK生

 
 
 

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