記憶すべきこと (エフェソの信徒への手紙 2章11~22節)
- 金子敬
- 2016年8月6日
- 読了時間: 2分
去る5月27日、アメリカ現職大統領オバマ氏が広島の原爆死没者慰霊碑に献花、黙祷をささげた。慰霊碑正面には「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」との言葉が刻まれている。これに対して昨今、「過ちを犯したのは誰か?アメリカではないか。日本は被害者であり、この言葉は自虐的だ。」との声が上がる。これを受けて広島市は「言葉の主語は“全世界の人々”です」とのコメントまで表わしている。
私がこの言葉に遭遇したのは就職初年度、その企業の広島工場を見学した折の自由時間に記念公園を散策していたときであった。すでにキリスト者であった私は、何とも言い知れぬ深い感動に襲われた。もちろん主語は「わたし」である。・・・・おそらくオバマ氏も同じであったであろう。
新型爆弾がさく裂し広島市と長崎市は焦土と化した。沖縄を捨て石として本土決戦に備えた日本も、ついに敗戦を認めざるを得なかった。台湾出兵、日清・日露戦争、韓国併合、満州国樹立と続いた70年間にわたる日本によるアジア侵略戦争はここに終結させられた。日本は「過ち」に対する審判を受けたのである。その悔い改めから、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」との世界に冠たる憲法9条が謳われるに至ったのである。
罪に対する審判は必ずある。広島・長崎の焦土はその傷跡である。そして、この誓いが神に向かうとき、まさに、わたしの罪の裁きを引き受けられた十字架が眼前に迫る。神はご自身を敵に回す人間の罪(原罪)に対して鉄槌を下される。それが御子イエス・キリストの十字架である。本来、私自身が裁かれ、死の宣告を受けるべきであるところ、神はご自身の内に裁きを引き受けられている。焦土と化した焼け野が原は、まさに十字架であり、私が犯した過ちに対する審判であり、神ご自身の痛みなのである。
繰り返される「過ち」を前に、ただただ、十字架の主を見上げるばかりである。真の赦しと和解は十字架を通してのみ来るからである。
TK生
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