キリスト信仰に歩む幸い (ヨハネによる福音書14章1~6節)
- 金子敬
- 2016年9月24日
- 読了時間: 2分
幼いころ、「わたしはどこから来て、どこに行くのか」との疑問を持ち続けていました。
明治生まれの父親は宗教的なことが好きで、子ども達を連れて神社仏閣に詣でたり、
御札を買ってきては神棚や仏壇に置いたりしていました。
そのような環境であったためか、小学生のころになると般若心経を(理解不明なまま)諳んじていました。しかし、この疑問を両親に尋ねても、「そんなことを考える暇があるなら勉強しなさい」と言われてしまい、「両親も分からないものを拝んでいるのだな」というのが私の結論でした。
これが一般的な日本人の宗教意識でありましょう。
20歳の秋、初めて聖書との出合いがあり、そこで「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)とのイエス・キリストの言葉を知って、幼いころからの疑問が氷解したのです。
そして、大切なことは宗教的行為や儀式を間違いなく行うことなのではなく、イエス・キリストを信じて、本物の「わたしのいのち」に生きることだと知らされたのです。
イエス・キリストに結ばれる時、「わたし」の存在が肯定され、神が期待される「わたしのいのち」が始まること、即ち、永遠の命に与れると知らされたのです。
正しく、「信じる者は永遠の命を得ている」(ヨハネ6:47)ということです。
今朝はこれまで古賀教会を通して、この「いのち」に与り、主の御許に凱旋された先達を記念して礼拝を捧げますが、教会は、まさにこの「いのち」が継承されていく場と言えましょう。
それは言うまでもなく私たちが、次の世代に継承するべき「いのち」の信仰を頂いているということです。
これは、子どもや孫たち、また、まだキリストを知らない人々にも伝えるべき最高の宝・遺産です。道であり真理であり命であるイエス・キリスト、このお方を信じる信仰こそが、
父なる神に至る「いのち」なのです。
わたしたちは「どこから来て、どこに行くのか」を知っています。イエス・キリストを通って(信じて)、父なる神の御許に行くことを知っているのです。
不確かな宗教心ではなく、この信仰に歩む者は幸いです。
TK生
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