愛を示された神 (ローマの信徒への手紙5章1~11節)
- 金子敬
- 2016年10月1日
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「ユダヤ人」という呼称は人種、民族、国籍と言うよりも、ユダヤ教を守る人々の意で用いられます。この呼称はイスラエルの民が国土を奪われバビロニアに捕囚となるBC6世紀ころから用いられました。
それまで神殿を中心にして祭儀を行うことにおいて一つとされていた彼らはそれが適わなくなり、その拠りどころを神の言葉に求め、聖書編纂に着手して「律法の民」となります。
そして律法順守を民に促すために登場するのがラビ(律法の教師)でした。イエスもラビと呼ばれましたし、サウロ(後のパウロ)もユダヤ教を堅持する代表的な人物でした。
しかし、イエスとその弟子たちが、厳格な「律法」を守り得ない社会構造的弱者に寄り添うと、
ユダヤ教当局は危機感を持って彼らの根絶を謀るのです。
その最先鋒に立ったのがサウロでした。しかし神は彼に天来の光をもって介入し、彼の行為こそが主なる神ご自身への迫害行為であると認めさせたのです。
サウロは自らの誤りに気付かされたのです。後に彼は教会に宛てた手紙で、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示されたではないか」(ガラテヤ3:1)と記し、十字架上に磔にされたままである主イエスこそが、神の恩寵の真の姿であると断言しています。
行為義認(律法)から信仰義認(福音)への転換であり、彼の「目からうろこ」体験(使徒9:1~19)でありました。
人間の救いは100%神の恵みの行為です。なぜなら私たちの側に救いに与る権利など主張できないからです。
「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:6~8)
神は、罪人のために、その罪の贖いをキリストの死において実現されました。それは一方的な神の行為、100%神の愛の現れです。
TK生
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