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主の名を呼び求める (ローマの信徒への手紙10章9~15節)

  • 金子敬
  • 2016年10月14日
  • 読了時間: 2分

今年度の古賀教会の標語は「宣べ伝えよう、よい知らせ」ですが、これに伴う聖書の言葉は、「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」(ローマ10:14)です。

しかし、この聖句だけ単独に読まれても何のことであるか明らかではありません。この言葉はその前の13節にある、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と結ばれて明らかになります。

この13節こそが聖書の説く「救い」に関する重要なメッセージです。これは旧約聖書のヨエル書3:5からの引用で、天地万物が滅びる最後の審きの場面で「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」とある記事に由来しています。

聖書で「救い」は過去、現在、未来において表されます。即ち、2000年前の主イエスの十字架の死によって確立している罪の赦しの救い、また、日常における様々な苦しみからの救い、そして、未来において明らかになる最後の審判における究極の救いがそれです。

中でも、パウロは、この「究極の救い」を最も重要視しているようです。なぜならパウロ書簡において「救われる」はいずれも未来形で記されているからです。

彼はこうも語ります。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者になっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。」(フィリピ3:12)と。

彼は日々キリストの手の中にありながら、約束された究極の救いに向かいつつ歩み続けていることを語っているのです。この意味において私たちも、究極の救いへの途上にある求道者である、言えるのです。

ルカ15章にある放蕩息子は、自分の罪に気づき、父のもとに帰り、「父よ」と呼びかけました。これに呼応して父は「子よ」と、無条件で迎え入れられたのです。

罪深い私たちも、この審判のときに神の御前で「主よ」と救いを求めて呼びかけるなら、迎え入れられるのです。

「究極の救い」の途上にある今を、主の名を呼び求めつつ歩む者は幸いです。

                                   TK生

 
 
 

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