1デナリオンの祝福に (マタイによる福音書20章1~16節)
- 金子敬
- 2016年11月4日
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「天の国」に入る条件として、一切を捨ててイエスに従うことを求められたペトロは、即座にすべてを捨ててお従いすることを表明しました。
主イエスはペトロの言葉を受け、捨てたものの百倍の報いを約束された上で、
「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われました(マタイ19:23~30)。
真っ先にこれに与れると自負するペトロが後回しにされる、というのですから、正に腰砕けというところです。
この語り合いに続けて、主イエスはこれとは反対の順序、即ち、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」と、ぶどう園で労働者を雇う主人の話をされました(同20:1~16)。
弟子たちにしてみれば、自分たちは夜明けと共に雇われた労働者の側にあり、契約通りに一日分の報酬を受けることは当然の権利と考えたことでしょう。
後から来た者と同じ扱いは予期しないことです。しかし、何と、夕方に雇われた労働者にも同じ賃金、1デナリオンが支払われるのです。いくらなんでもそれはない!というところです。
この様なことが今の時代で行われるなら「同一労働同一賃金」の法則に反すると訴えられるでしょう。
より多く働く者、より価値のある仕事に就く者こそ多くの賃金を得ることは常識です。
しかし、それは主イエスの語る「天の国」では非常識なのです。
このぶどう園の主人は「わたしの気前よさをねたむのか」と言い、働きの多少にかかわらず、同じ報酬を与えたいのだ、と断固として譲りません。
すべての人が、しかも最も受けるにふさわしくないと考えられている人こそが優先されて、同じ1デナリオン。これが「天の国」です。
教会は何を語るのか?この世の常識を満足させる言葉を語るのでしょうか?
そうであれば多くの人が喜んでクリスチャンになるでありましょう。
しかし、そこには「天の国」「救い」は存在しません。教会は、この世で「最後に置かれている人々」を最先端に引き上げるのです。
一番貧しい人々、一番苦しむ人々、そのような人々が、今日一日の必要に与ることができる世界を作り出すことを指し示し、これにかかわるのです。
これが教会の使命であり、この世で神の働き(ディアコニア/奉仕)に共に与ることなのです。
TK生
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