御言葉に聴き従う幸い (ルカによる福音書 1章26~38節)
- 金子敬
- 2016年12月16日
- 読了時間: 2分
「なぜ聖書を読むのか?」と問われるなら、「そこに真理を見出すから」と答えるでありましょう。一方、「なぜ聖書を読まないのか?」と問われた時も、「実は、真理に遭遇するのが怖いから」となるのではないでしょうか。
ヘブライ4:12に「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」とあります。
確かに、聖書の言葉に向き合うことは自分の内面を明るみに出される「恐れ」に通じるものがあるのです。しかし、この「恐れ」の中にこそ「恐れることはない」との神の恵みが置かれているのです。「聖書を読まない」人々は自分の心を閉ざして「神の恵み」を遠ざけてしまっているとも言えましょう。
クリスマス、それは神がこの世に介入された重大事件でありましたが、それはこの世の王や学者たちに示されることなく、最も小さくされた人々の中で現わされたのです。
ヨセフとマリア、恐らく彼らは十代半ばの社会経験もない世の中の常識も知らない未成年者だったでしょう。彼らが何の力も持たない故に、神は二人に臨み、神の恵みを実現する器とされたのです。
その恵みの内容は、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。・・・あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」(ルカ1:28、31~32a)というものです。
彼女は「戸惑い(全く取り乱すの意)」つつも、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(同1:38)と受け取り、救い主イエスの母として歩み出すのです。
神は、ご自身の言葉に聴き従うことを条件に、その人を通して歴史を動かされます。
神の歴史の実現に与るための条件は、只一つ、自我を捨て去り、神の言葉を優先する生き方、即ち「キリスト・イエスの僕(奴隷の意)」(ローマ1:1)として生きることではないでしょうか。
何故なら神は御言葉に聴従する人を捜し出し、その人にご自身の歴史を託しておられるからです。アーメン、マリアと共にクリスマスを迎える者は幸いです。
TK生
Comments