クリスマスの「しるし」 (ルカによる福音書 2章8~20節)
- 金子敬
- 2016年12月23日
- 読了時間: 2分
羊飼いたちに示されたクリスマスの「しるし」は、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」(ルカ2:12)でした。
「飼い葉桶」は羊飼いにとって生活に直結する物であり、そこは誰にも気兼ねなく自由に出入りできる生活の場でした。実に、神の子は繁栄を享受する人々の中にではなく、富とは無縁の貧しい人々のただ中で誕生されたのです。
勿論、最底辺に生きる人々にとって、生活の向上が必要ないという訳ではないでしょう。
何とかしてこの生活から脱したい、富を蓄え豊かな生活を送りたい、そのような願いがなかったわけではないでしょう。しかし、正しく、彼らは「社会構造的」に弱者を余儀なくされていたのです。それは今日でも同じです。
すべての人々に公正であるべき政治が、貧しい者を置き去りにして富める者をますます豊かにし、自分たちこそ「主役」であるかのように振舞っています。しかし、神は彼ら強者の中に身を置かないのです。
神は常に最も弱くされている人々を捜し出し、そこをご自身の居場所に定めます。病む者、苦しむ者、悲しむ者・・・、今日も「自己責任」なる言葉を浴びせられて抑圧されている人々がいます。
中央から切り離され、犠牲を強いられる周辺があります。もがいて、もがいて這い上がろうとする手を踏みつける為政者の前に「諦めと従順」を説く宗教集団さえあります。
しかし、クリスマスの「しるし」は羊飼いたちに知らされました。
神は最も弱くされている人々の中に御子を置かれたのです。
御子イエス・キリストの生涯、飼い葉桶から十字架への日々は、実に「枕する所もない」(ルカ9:58)ものでした。アーメン、神は遠い将来に、今とは異なる豊かさを希望として約束されたのではありません。
キリストの誕生は、苦しむ者への将来の希望としてではなく、今、この苦しむ人々の中に実存する希望として現わされたのです。キリストが身を置かれるところ、そこが希望なのです。私たちが、最も低められた人々の中にあるならば、そこでキリストに出会い、キリスト礼拝者として歩むことが出来るのです。
然り、今あるこの「しるし」に希望を見出す人々は幸いです。メリー クリスマス!
TK生
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