「わたしたち」の祈り (マタイによる福音書6章9~13節)
- 金子敬
- 2017年3月18日
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国語辞典で「祈る」を引くと「神仏に祈願する」「心から希望する」などと記されています。
これが一般的な「祈り」の概念なのでありましょう。一方、キリスト教大事典には多くの紙面を割いて解説が記されていますが、それは「神との対話、明確な言語による神との対話であり、瞑想、独り言、呪術の類とは厳格に区別される。」とあります。
確かに神社仏閣で手を合わせる時、それは「願いごと」であり、「~して下さい」の連発です。そして、「願いを叶えて下さる」か否かでその神仏を評価さえするのです。
しかし聖書が示す「祈り」は、今ここにおられる神との親しい交わりであり、対話です。十字架を前にした主イエスが「アッバ」(マルコ14:36)と呼ぶ姿に示されるように、それは、幼児が口にする「お父ちゃん」であり、絶対的信頼関係の中での語り合いです。
主イエスが教えられた「主の祈り」(マタイ6:9~)においても、「父よ」との呼びかけから始めています。
更に、この「主の祈り」は「私と神」の個人的な対話にとどまりません。「わたしたちの父よ」と祈るのです。常に隣人が意識される祈りなのです。
Ⅰではなく、共に生きる一人一人が意識されるWeです。そして、このWeの広がりこそが「主の祈り」の神髄です。
自分の好きな仲間たち、家族や職場にとどまらない。民族、人種、性別、国、地域、
宗教をも超え、更に言うならば人類さえも超える全被造物を包み込むところのWeなのです。
この「わたしたち」が共に御国を受け継ぐものとされていること、だから、奪い合うことなく必要な糧(一日分の食料)を分かち合うこと、お互いに負債を赦し合うこと、
常に襲ってくる自己中心への誘惑から守られること、これらを祈るのです。
「主の祈り」は、唱えれば守られる「呪文」の類ではありません。
生ける神の前に、自らが他者と共に生かされていることを意識する決断の祈りです。
この祈りの前後に、「施し」と「断食」の勧めが記されていることは決して偶然ではありません。この祈りを祈る者の、生きた証が求められているからです。
実に「主の祈り」は、わたしたちに、その生き様、神と世界に開かれた生き方を問いかけているのです。
TK生
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