「いのちを考える住まい」
- 内山賢治
- 2018年8月10日
- 読了時間: 3分
「新聞はもう一つの眼/欲望 の せ め ぎあう 巷にかく された/かずかずの人 間 の 劇 を/ときに 笑いときに 怒 りときに 涙 し/それはみつめる/新聞はもうひとつの 口/正義に名をかりた大 声のか げ の/しいた げられた 者 の沈黙 を/無名のいのちの証 言として/それは語る」 谷川俊太郎の「 朝日とともに」が 朝 日新聞東京 本 社 の扁額になってい るという。「新聞」を「神」に 置 き 換えて心読した。
◆「平和とは自然 と笑顔になれ る こと」2018年8月6日 広島祈 念式で 小学生代 表 が読ん だ「平和の 誓い」の一部だ。端的に平和の 意 味 を 捉 えてい る。難 解 で抽象 的な「平和」を平 易 に 置換してい る。聖書の 言 葉 も そうであれ ばどんなに 心の中にストンと 浸 み 込んでいく だ ろうかと 思うこ とし ば し ば だ。
◆ 特にイス ラエルの 民 族 史、ヘ レ ニ ズ ム 文 化、ユ ダヤ教、中 東 の 地 理、ロー マ 帝 国 史 な どの 基 本 的 知 識がないと旧約聖書は自分とはかけ 離 れた 遠 い存在とな る。かといって 自己研鑽 を積む こ とも 悩ましいし面倒 と感じてしまう。 そのようなと きに 自己流に聖書の 物 語 を解釈してしまう。
◆創世 記18 章 のアブラハムと神との対話を読み、この谷 川俊太郎 の 詩を読み 直した。「いのちの証 言」の 塊 が 聖書には 詰まってい る。つまりわたしに義しく生き よと神は 語りかけてい る。
◆ 様 々な人生経験 を 経 て 聖書を読 む と 思いあた ることも、 昔の人も そ う だ っ たの ね と安堵 す ることもあ る。創世記を読み そ の 物 語 が 私 自 身 に 迫ってく るものがあ るという体験 を 通 じて「 我と汝」の関係 の 入 り 口、つまり神の前にど のように生き るかの 問いかけに気づくのではなか ろ うか。
◆ 人 間と神の 物 語 =聖書を自分はこう読ん だ という感想を教会の内 外 で率直 に 語 り合え ばよいと 思う。 語りあえる場が「 住まい」とな る。そこで正 解 を 求 め ることはなくてよい。創世記 や福音書には 様 々な人生模様 が展開してい る。一 貫してい るのは 人 間 の 弱さを 認め受け 止 め るイエスの言動ではなか ろうか。人は 強さに 向かって 歩く時に 弱さを 押 し 隠 し、自分とは 違うものを排除 す る傾向があ る。今 以 上に 強くならなけれ ば と 思 い込むこともあ る。完璧 さを 求 め る必要はない。
◆聖書の 著 者たちは日 常 生 活の中には 絶 対はないが神という 絶 対を信じ従うか を 自 問してい る。アブラハムは神と対話をして 静 か に 戻った場 所 が 家(創世記18 章33 節)であった ことは興味 深い。神はな ぜ10人の義人を 求めたの だ ろうかと祈ったこと だ ろう。「 住まい」からまた 物 語 は進む。
内山賢次(伝道担当執事)
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