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「1944年(昭和19年)、神戸へ。そして、戦死した2人の兄」 草場久子

私は1935年(昭和10年)11月1日に誕生しました。

来年90歳になります。5歳の時、父が病気で亡くな

り、母も病気の身でした。太平洋戦争が始まって4

年目の1941年(昭和19年)3月、小学2年生の私は、

母の親戚が暮らす神戸の家に行くことになりまし

た。その家には子供がおらず、私を養女として育て

たいと、病身の母に両手をついて頼んだのです。母

もつらかったと思いますが、自分の体と私の将来の

ことを考えてのことだと思います。一方、私は神戸

ってどんなところなんだろうと考えて、一度行って

みたいと軽い気持ちで行きました。クラスの人たち

はそんな私を珍しがり、すぐに友達ができました。

しかし、間もなく父(養父)が姫路の警察署長になり、

姫路の学校に転校しました。1941年(昭和19年)の夏

です。その頃になると、電気も来たり来なかったり

という状況で、学校も空襲になると、すぐに家に戻

され、ほとんど授業はありませんでした。姫路で1

年ほど暮らした1945年(昭和20年)夏、再び父の転勤

で神戸に戻り、そこで終戦を迎えました。そして翌

年、1946年(昭和21年)のクリスマスの日、小学5年

生の私はクラスの友だちに誘われ、初めて教会に行

きました。それから毎週日曜は教会に通うようにな

りました。中学は父に頼み、神戸のキリスト教系の

松蔭中学に進学しました。そして中学2年の時、父

の郷里の福岡の三代に移り、新宮に家を建て、今に

至ります。

私は5人兄妹の末っ子で、戦争で上の2人の兄を

なくしました。一番上の兄はビルマの激戦の中で、

そして2番目の兄は人間魚雷で亡くなりました。そ

れは、片道の燃料しか入れてもらえず、敵の中に突

っ込んで爆発する兵器です。戦後、私は人間魚雷の

講話があると聞くと、兄のことを少しでも知りたい

と、どこにでも出かけて話を聞きました。

人間魚雷は人一人がやっと横になれるほどの大きさで、

背が高かった兄は足を曲げて横になったのでないかと、

可哀想になりました。その魚雷は、初めのうちは鉄で

作られていたそうですが、次第に木で作られるように

なったそうです。私は講話のあと、兄がどれだけ辛い

思いをしたかと想像すると、なかなか眠れませんでし

た。私たちは二度と戦争をしてはいけません。私はこ

れまでも、そしてこれからも祈り続けたいと思います。

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