「おじぎできなかった内村鑑三」 木村憲子
キリスト教が大切に思う「信教の自由を守る日」、暦
では2月11日は、建国記念の日として祝日になってい
る。まさに今日の日です。信教の自由など考えることが
出来ない時代があったひとつの実話を通して、内村鑑三
の話しを紹介します。
下記に記した内容は、『聖書はわが足の灯』を執筆さ
れた瀬戸毅義先生(元バプテスト連盟牧師、現在、筑紫
野南キリスト教会員)がお話しされた文章から編集し纏
めたものです。瀬戸先生のご協力に感謝します。
1891(明治24)年1月9日、東京の第一高等中学で教
育勅語奉読式があり、教授60名、学生1000名以上が
一高の倫理講堂に集まった。教授生徒は、5人ずつ壇上
に進み出て、勅語に記された明治天皇の署名(宸(し
ん)署(しょ))敬礼することを求められた。★その中に1
890年9月に嘱託職員となった内村鑑三(31歳)がい
た。式場の正面中央に明治天皇及び皇后の写真が掲
げられていた。前面卓上には明治天皇署名の教育勅語
が安置されていた。かたわらには一高校旗の護国旗が
あった。そのようなものものしい雰囲気の中で、内村は勅
語の最後にある明治天皇の署名に、礼拝的低頭を命じ
られた。★礼拝的低頭とは身体を45度曲げること。第3
番目に上った内村はちょっと頭を下げたが、深々とはしな
かった。★その理由は内村がアメリカ、アマースト大学
(Amherst College)で合理的な近代精神を学び、シ
ーリ(Julius Hawley Seelye)総長から贖罪信仰を学
んで帰国したことにあった。★それは一瞬の判断の結果
でした。頭の下げ方ひとつで日本中騒ぎとなった。★こ
れが「不敬事件」といわれるものでした。しかし内村鑑
三が払った代償は余りに大きかったのです。★在任わず
か5ヶ月で内村は依願退職となり肺炎に罹った。肺炎が
感染した妻は、3ヶ月の病床の後必死の看護にもかかわ
らず、23歳の若さで天に召された。内村は新聞で国賊、
不敬漢などと罵られた。さらに自宅への投石、恫喝(どう
かつ)等が相次ぎ命までも脅かされたのだった。★その
後数年困窮の中、放浪しながら数々の名著を世に出し、
キリスト教文筆家として再び世に立ったわけです。
★不敬事件から54年後の1945年に日本は敗戦した。19
48年6月19日、衆参両議院で教育勅語の排除と執行の決
議があった。★神は公平です。不敬事件後57年たって内村
鑑三の行為の正しさが証明されたのです。戦後の新しい日
本国憲法第20条には「いかなる宗教団体も国から特権を
受け、また政治上の権力を行使してはならない」とある。★
信教の自由がいかに重要なことか理解ができるのです。
私は内村鑑三の信仰はまさに真の神への礼拝だと思った。
信仰を貫くことの厳しさも伝わってきたが、神の愛を知るも
のに恐れはないと。
最後に(ヨハネの手紙一5:5)「誰が世に打ち勝つか。イ
エスが神の子であると信じるものではありませんか。」
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