「なぜ」と問い、「あいまいさ」に耐える 泉清隆
政治学者の姜尚中(かんさんじゅん)さん(鎮西学
院大学長)が朝日新聞に旧統一協会問題に関連して
カルトについて論じておられたのを読み、教えられ
たので紹介します。
私は1980年に洗礼を受けた。外国人登録法で義務
づけられていた指紋押捺を拒否し、支援者のなかに
牧師の土門一雄さんがおられた。そのころ、父と、
第二の父と呼べる人を亡くしたが「すべてのわざに
は時がある。今、時は姜さんにほほ笑んでいないが、
その時が必ずくる」と言ってくれた土門牧師のこと
ばに救われた。洗礼は自分の力ではどうしようもな
い宿命的な苦難のなか、これまでの自分はいったん
死んで、生まれ変わることだ。2009年に長男が亡く
なった(自死)ことは人生が課した最も大きな試練だ
った。自分がいなくなること以上に、愛する者がい
なくなることが、こんなにもシリアスなんだと。洗
礼を受けていなかったら自分を支えきれなかったか
もしれない。同時に洗礼から学んだことは、不幸で
あるがゆえに、より強く生きがいを感じ、生きるこ
との意味を深く詮索できることだ。人生の目標は幸
福ではなく、人生の最後の1秒まで自分が生まれて
きたことの意味を見つけ出すこと。宗教的な出会い
をすると、最初に来るのは「なぜ」という問い。な
ぜこうなったのか、なぜ自分なのか。こうした「な
ぜ」に科学は答えられず、信仰の前では知性は犠牲
にならざるを得ない。そこに宗教の怖さがある。
今、宗教に求められるものは何か。宗教には、あ
いまいさに耐えられる力がある。今は戦前の20~30
年代のように何が起きるかわからない時代。あいま
いさに耐えられないと、国家教ともいえるナショナ
リズムに走る。過剰になったとき、排他性や暴力性
が人々の心をとりこにしかねない。これに対して、
宗教は国家的な価値を相対化する役割を果たせる。
私たちが発見したグローバル化の推進力は資本で、
お金は誰が持っていても同じで国境を超えられる。
宗教にもその可能性がある。人種、民族、男女、貧
富といった個別的なアイデンティティーを超え、真
の意味でのグローバル化を実現できる。ただ、それ
ができるのは、対話する宗教であり、閉じられてい
るカルトにはできない。
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