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「にもかかわらず、教会を信じる」                    泉清隆

先日、藤澤一清牧師が召されて3年になり遺稿集がお連れ合いさまから送られてまいりました。タイトルの「にもかかわらず、教会を信じる」に感動して皆さんにも紹介したいと思いました。

 国民学校(小学校)入学とともに始まった戦争、戦死を美化する教育、死の恐怖による心の内部分裂などを紹介しました。また教会では、「月月火水木金金」という国民歌謡が風靡するなかで、兵隊さんには 「土・日」はない、日曜に休んで教会に行くなんて非国民だ、という風潮でした。それまで熱心に礼拝を守っていた中心的な人びとは離れて行き、牧師家族と高齢者数人が前席にかたまって、ときどき腕組みをした若者二人が最後部を占めるという風景を話しました。戦後、当時の歴史を知るようになって、その若者たちが特別高等警察(公安警察)であり、治安維持法のもとに思想を監視する機関であったことがわかりました。この悪名高い法律=治安維持法で、教会は天皇や戦争をどう考えているかを調べでいたのでしょう。会衆が東の壁に、つまり皇居の方向に向かって最敬礼をしていた理由や、母が日曜午後、七輪で父の説教ノートを焼き捨て、証拠を残さないようにしていた訳を理解しました。偶像礼拝禁止やキリストの再臨を強調する教派(ホーリネス)では、牧師や信徒が検挙され、獄死した牧師がいたことを伝え知っていたのです。ですから教会では、聖書の選び方や解釈に自己規制をかけていくことになります。たとえば、「人、友ために命を捨てること、これよりも大きな愛はない」が愛国心の教えとして説かれる一方で、「汝の敵を愛せよ」は禁句でした。賛美歌もそうです。戦後、若者の感覚で、当時の教会や牧師(私の父)の世渡り術を批判したものです。しかし、だからこそお前は生きてこられたのではないかと自問せざるを得ませんでした。戦争責任告白が鋭ければ鋭いほど、そのような私には実に重苦しいものです。戦争が始まる前の教会は、今と変わらない雰囲気でした。子ども、若者、壮年、高齢者が集い、和気あいあいとしていました。米国人宣教師は子どもや若者のアイドルでした。戦争のにおいが濃くなるにつれ、宣教師は母国に送還され、若者も教会どころではないと思い始め、礼拝出席者も徐々に少なくなりました。それまでの教会は、外国教会の大きな援助で成り立っていましたが、戦争が勃発するとともに教会や牧師の生活は逼迫していきました。長崎教会の場合、国の援助で戦時保育園を開設することになり大工事を行いました。男は戦争に行き、残された女は軍需工場で働くという時代、子どもを預かる施設が求められたからです。多くの子どもたちが集まりました。牧師家族も忙しく、経済的にも支えられました。しかし宣教の悪化で保育園は閉鎖し、父は市内の女子ミッションスクールの臨時教師となって食いつなぎ、やがて女学生たちも軍需工場へ動員され、その学校も機能しなくなりました。そこで、教会の役員の身内が社長である、当時は東洋一のドックをもつ造船所に勤めることになりました。その会社は東条首相の肝入りで造られた軍需工場で、長崎港外の島にあり、その秘書課に入りました。

しかし更なる戦況の悪化で、父は国民兵として召集され、佐世保の相浦の海兵団に入隊しました。そこには尾崎圭一、日笠進二などの同僚牧師も集められていたとか。若い牧師や神学生には進んで軍属になった人びとも多いのですが、戦後、牧師になった彼らはどう弁明してきたのでしょうか。もちろん志願したわけではありませんが、父もそうでした。そのことについては言葉を見いだせないまま、しかしこだわり続けた苦しい歩みだったと、今になって思うのです。このように、教会も牧師も、戦争に協力することによって生き残ってきたのでした。その中に私もいます。

 栄光の教会と挫折の教会の狭間で、いま私に問われていること。イエス・キリストは、どこに、どのような思いで、またどのような姿でおられたのか。にもかかわらず、あなたは教会を信じるのか。そして最後に、いま私に言えること……にもかかわらず、イエス・キリストは確かに教会におられたし、しかもおられる 十字架の姿において。ゆえに私は教会を信じる。

2014/2/16(信教の自由を守る日の集会で)

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