「イエスの現場」 内山賢次
今年のイースタ礼拝(4/9)で泉清隆牧師が選んだ
聖書の箇所は思いも掛けないルカ伝15章11-24節の
放蕩息子の場面でした。礼拝後の教会学校Bクラス
では普段通りに宣教の分かち合いで、このイエスの
譬えが大好きだ、死んでいたのに生き返り、いなく
なったが見つかった、これは祈りそのものである、
25節以下の兄の言動に賛同するが父親の返答には疑
問符が付くなど示された聖書の後半からの意見もあ
りました。教会生活の長短に関わらず私たちは何度
もこの場面を巡って考えてきたことは確かでしょ
う。自分自身が置かれている環境、年齢、家族状況
の変化で同じ個所でも読み取り方が違い、発見もあ
ります。☆福音書に書かれたイエスの「生の言葉自
体」はどれであったかは研究者によって明らかにさ
れていますが、その発言がどのような状況下で語ら
れたか、いつどこで誰にどのような意向をもって語
られたか、あるいは憤っていったのか、悲しみを込
めていったのか、温かいユーモアに包んでいったの
かに関しては、福音書がイエスの死後数十年後に執
筆されましたので正確にはわかりません。☆がしか
しイエスの言葉の真意に迫るためには、イエス時代
のユダヤ社会はどのような状況であったかは周知し
ておくことは必要です。律法社会の掟の根幹に潜ん
でいるものは「清さと汚れの領域」の意識である。
そこからはみ出したものを罪人として排除する世界
であった”。<参考「寅さんとイエス改訂新版2023」
/米田彰男>☆イエスの放蕩息子の譬えは誰に対し
てでしょうか。ファリサイ派の人々、律法学者がそ
の対象であったことが1-3節からわかります。「見失
った羊」「なくした銀貨」の譬えに続いて「放蕩息
子」の譬えが語られます。カトリック司祭の米田彰
男の結論は、正しいことを教えてきたファリサイ派
の人々、律法学者らに<兄の姿>を例えたと読解し
ています。そこには彼らを責めるのではなく婉曲表
現でメタノイア(回心)を導く鋭い刃が潜んでおる譬
えであると。☆イエスの日常の行為は、たとえ掟を
破っていようと眼前の弱っている人、苦しみ悲しん
でいる人が普通の状態に戻るようにする行為、人間
が人間として正しいことを正しいとする行為だと断
言しています(P274)。つまり父親を非難する兄はフ
ァリサイ派の人、律法学者に相当すると結論づけて
います。“いなくなっていた弟が見つかった”それ
までの父親の悲しみ・苦しみに寄り添うことは普通
の行為だとイエスは言われるのです。
☆信徒宣教者の会では関田寛雄先生(実践神学/教団牧
師)の論文を学んでいます。かつて先生に依頼した人権
学習集会での発題説教で聖書から読み取りで、イエス
の行為は現在の生活と密接な関係性があることが示さ
れました。「具体的な問題と課題に具体的に関わるとい
う経験が裏付けの時に、真実な響きがある」(関田寛雄
「断片の神学」)☆後日寅さんのフアンであることを知
り、不思議に思っていました折に米田司祭の「寅さん
とイエス2012年版」に出合い、今回4月の改訂新版か
ら「兄の言動」を語られたイエスの現場に近づいてい
ます。☆古賀教会は5名の信徒宣教者を委託しました。
『魂は沈黙して、ただ神に向かう/詩編62』その一人と
して神から力を頂いて、イエスはどうされるかと問い
をもって仕えていこうと思います。
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