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「イエス・キリストの話し」   泉清隆

以前、聖書学者の広島大学名誉教授の佐竹明という方が、西南学院大学の神学部で、こんな話しをされました。「聖書を学ぶということ、これは大事なことです。しかし説教で聖書をもろに語るということは、かならずしも大事でないばかりか、しばしばそれはプラスに働かないことがある、ということを私たちは十分に知っておくべきだと思います。

 聖書を振り返りながらする説教というのは、非常に建徳的に見えますけれど、それはその当時の(つまりキリスト教がまだ成立していない当時の)ユダヤ教のパリサイ派がしていた説教ではなかろうかと思うのです。イエスの説教には、明らかにそれとは違うものがありました。われわれが聖書を頻繁に引きながら説教をする場合は、イエスの実際の説教とは違うパリサイ派的な説教をいま自分はしているのだ、ということを十分に意識しながらしていなければいけない。そこのところを意識しないで、『説教するということは要するに聖書のことを語ることなのだ』ということで説教していたのでは、聞いている人の目を過去に向けさせてしまう。聖書というものは現在も生きてい書物だと言ってみましても、それは当時のユダヤ人もまた、聖書は現代の書物だと理解していたのです。しかし実際には、それは過去の書物になってしまっていた。それと同じように、われわれが聖書を大事にするあまり、聖書にばかり目を向けさせるような説教をしておりますと、それは、現在の生きた環境の中で、生きた人間に語る言葉にはなりえないのではないか、と思うのです。もちろん『説教の中で聖書をいっさい引くな』などと申しましても、それは無理なことでありますし、また実際にやってごらんになれば分かりますように、ほんとうに意味のあることを、しかも聖書に頼らないで語ろうと思いますと、たいへんな労力と準備とが必要になるはずであります。(途中省略)

 どういう説教をイエスはされたのかと言いますと、きわめて日常的な、私たちの生活の中のじっにささいなことがらを取り上げて、そして、そのなかに神様が私たちと一緒にいてくださるのだ、という事を語ってくださったのです。たとえば、一匹の羊を失くした羊飼いの話だとか、女性が十枚の銀貨のうち一枚をなくして大騒ぎをして、

それを見つけたときには他の人のところまで跳んで行って「見つかりましたよ、一緒に喜んでください」と言いたくなる、そういう題材とか、空の鳥、野の花の喩えとか、太陽と雨の喩えといった、ふつう私たちの生活の中のじっにささいなことがらを取り上げて、そして、そのなかに神様が私たちと一緒にいてくださるのだ、という事を語ってくださったのです。神様はこのように配慮してくださるのだから、あなたがたのことをも配慮してくださらないはずがあろうか、というふうに言って、私たちに神の愛をお話しくださったのです。その話というのは、ぜんぜん難しくない。学問のある人にしか分からないというような話しではなくて、むしろまったく逆に、律法学者のような人たちにはもの足りないような、そんな単純な、あなたは愛されていますよ。あなたは大事だよ。」というメッセージです。

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