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「イサクの井戸掘りの深堀」 木村憲子

「世の光」6月号の聖書研究 第3回「寄留者イ

サクの井戸掘り」から一部引用します。

ペリシテ地方のゲール(寄留者)となったイサクの

井戸掘りは、よそ者に対する排除のゆえに何度も挫

折を味わうことになった。イサクの井戸掘りには、

只生き延びるために水を求めることを超えて、自分

自身のルーツを何度も掘り起こし思い起こすという

意味が含まれていた。つまり、寄留者イサクの井戸

掘りにはふたつの意味が込められていた。一つは、

寄留者の道を行くときも、自分はどこから来た何者

なのかを絶えず想起する心の井戸を掘り下げるとい

う道。もうひとつは、行く先々の地で井戸を掘りな

がら、よそ者に対する敵意や恐れではなく、人びと

の心から歓待と友愛の心をくみ上げることのできる

水脈にたどり着く道である。

何度も嫌がらせを受け、それゆえに新たな場所へ

と移動してそのように二つの意味を持つ井戸をさら

に掘り続ける道を、イサクは放棄しなかった。そし

て、そのようにしていつしか、彼の井戸掘りは、か

つて父アブラハムが掘った井戸を頼りに古い井戸を

復旧することを超えて、イサク自身の新しい世界が

切り拓かれて行くことになる。

イサクの、生存権と心のルーツを求める井戸掘り

は、「争い」(エセク)や「敵意」(シトナ)を超えて、

ついに「広い場所」(レホボト)にたどり着く。自分

の心が「解き放たれる」、つまり不安と恐れから解

放される境地(詩編25:17)を意味している。

何か大切な物が枯渇していく私たちの社会は、敵

意や差別、また恐れによって隔てられることなく、

流れ合い分かち合える水源のような 歓待と友愛の

精神によって癒されなければならない。共に生きる

ために水を分かち合えるような歓待と友愛のレホボ

トの井戸掘りのために生きる神の寄留者が呼び集め

られたキリストの教会としてわたしたちは世に遣わ

されている。

金性済(キンソンジェ)氏

在日大韓基督教会牧師歴任、旧約聖書学神学博士)

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