「クリスチャンとなる」 金子政彦
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、次のよ
うに言いました。『ひとは建築することによって大
工となり、琴を弾ずることによって琴弾きとなる。』
これと同じで人は正しいことをする中で正しい人に
なり、節度あることをする中で節度ある人に、勇敢
な行為をする中で勇敢な人になると続きます。「人
となり」というときの「なり」とは、生まれ持った
ものではなく、ある行為の形(なり)を繰り返しなぞ
る中で、ひとが成りゆくものといいます。クリスチ
ャンも同じかもしれません。イエスさまのことばを
含めた「行為の形」を繰り返しなぞる中で、クリス
チャンとしての形=「人となり」に成っていきます。
イエスさま自身も、くびきを負い、荷物を背負っ
て生きておられました。イエスさまが背負われたく
びきは、「神に対する信頼・従順」というくびき。
イエスさまが負われた荷物は、「私たちに対する神
の愛の実践」という荷物。特に、社会の中で虐げら
れた人、貧しい人に対する神さまの愛を実践なさい
ました。イエスさまが生きておられた時代、モーセ
の律法が守れない人は罪人とされ、神の国には入れ
ない、神の裁きの対象となるとされました。ユダヤ
社会の中で、そういった「生きる価値なし」と格付
けされた人々に対して、イエスさまは「さあ、私の
ところに来なさい」といわれます。
人を格付けする行為は、現代社会にも見られます。
他者を格付けするにとどまらず、自分自身をも格付
けすることがあります。結果、「私なんか、生きる
価値がない」と思われて、立ち上がれなくなる、そ
のような場合さえあります。イエスさまは、そのよ
うな私たちに語りかけられます。「あなたがたを休
ませてあげましょう。」
イエスさまは、虐げられた人に権力を与え、貧し
い人にお金を与えるといった休ませ方をなさいませ
んでした。イエスさまは、虐げられた人、貧しい人
と同じ立場の、同じ人間になられました。そして、
その中で、神さまを信頼するとはどういうことかと
いうことを、具体的に、身をもって示されました。
聖書には、次のように記されています。『キリストは、
神の身分でありながら、神と等しい者であることに固
執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の
身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿
で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架
の死に至るまで従順でした。』(フィリピ2:6~8)
イエスさまのその姿を見て、イエスさまが背負って
おられる「信頼・従順のくびき」を身につけるように、
イエスさまに学ぶようにと勧められています。このイ
エスさまの「くびき」によって、私たちは、私たちが
担えない荷を与えられることが無くなるばかりか、イ
エスさまと一緒に、私たちが共に生きるために必要な
荷を担わせていただけるようになります。その時私た
ちは、安らぎと共に、喜んで再び立ち上がる力を与え
られるのです
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