「ゲルニカ」~平和への願い 泉清隆
10月25日の朝日新聞天声人語に「ピカソの代表作
のひとつ『ゲルニカ』は1937年の万博の展示のため
に描かれた。絵の完成は開幕に間に合わずスペイン
館の入り口に置かれたのは万博が始まってから約1
カ月後だった(荒井信一『ゲルニカ物語』)。ところ
が、いざ公開が始まると、空爆の悲惨さを伝える絵
は、多くの来館者の心をつかんだ。ゲルニカが象徴
する反戦と平和は、この年のパリ万博のイメージと
なった」とありました。
また、琉球新聞に佐喜真美術館学芸員の上間かな
恵さんが「平和交流とゲルニカを訪ねる旅」という
文章を書かれていました。「1937年4月26日にナチス
ドイツ空軍がスペインのゲルニカ市に約3時間にわ
たる世界初の戦略的無差別爆撃を行ったことが、パ
リにいたスペイン出身の画家ピカソに決断をもたら
して傑作「ゲルニカ」が生まれたのである。ピカソ
が、人間の自由と尊厳を破壊し尽くす殺戮者への怒
りと全人類の叫びを込めて全身全霊で臨んだ作品
に、上間さんは普遍的な怒りと悲しみ、叫びと痛み
を確かに感じたのです。と同時に、ドイツ将校がピ
カソに「これを描いたのはお前か!」と詰め寄られ
たときに「いや違う。これを書いたのはお前たちだ」
とピカソが言ったというエピソードがあり、この作
品を描かせたのは、今、この「ゲルニカ」を見てい
る「あなた」もではないかという叫びもでもあった」
というのです。
そして思い出したのが「1988年に福岡市立長尾小
学校の卒業式において、卒業制作として描いた『ゲ
ルニカ』が飾られるはずのステージに日の丸が張ら
れ、リハーサルになかった『国歌斉唱』が行われ、
この国歌斉唱の途中で、児童の一人が『歌えません』
と叫び多数の児童が着席し、当時の担任である井上
龍一郎(いのうえりゅういちろう)教諭は、この児童
に呼応するかのように着席しました。また作品を卒
業式の一番良い場所(ステージ上)に掲げてほしいと
求める職員案に対し、校長は日の丸を正面に据えた
儀式を求めて職員会議は紛糾。前々日のリハーサル
までステージにあった『ゲルニカ』は当日は卒業生
の背後に掲げられることになった。このことに反発
した児童数人が、式中の決意表明の際に『悔しい』
と発言し、その中の一人は
『私は、深く怒り、屈辱を感じています。校長先生は
私たちを大切に思っていなかったようです。ゲルニカ
には、平和への願いや私たちの人生への希望も託して
いたのに。』と(図書館データベース参照)。このあと、
井上龍一郎教諭は減給処分となり、提訴しましたが敗
訴しました。
書道家でもあった井上龍一郎さんは、「ペシャワール
会」の事務局で15年間ボランティアとして働き、中
村哲さんが銃弾に倒れた後2020年3月に、水墨画家の
鵜島朴同(うしまぼくどう)さんと共に、中村哲さんの
言葉と活動をその作品を通して伝えられました。
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