「パウロはイエス・キリストに会っていたのか」 泉清隆
コリントの信徒への手紙二の5章16節「それで、
わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとは
しません。肉に従ってキリストを知っていたとして
も、今はもうそのように知ろうとはしません」この
パウロがイエス・キリストを肉に従って知っていた
という箇所から、パウロは生前のあのナザレのイエ
ス・キリストに対面で会っていたのかという論文を
神学校の時に読んだ事がありました。
イエス・キリストの復活理解が難しいという意見
を伺いました。確かにイエス・キリスト誕生の(ク
リスマス)、イエス・キリストの十字架からの復活
(イースター)、そして聖霊降臨(ペンテコステ)と、
キリスト教に馴染みのない方たちには段々と理解が
難しいように思います。
2021年度の「世の光」の聖書研究には西南学院大
学神学部の青野太潮名誉教授が執筆されています
が、そこにはパウロはユダヤ教から回心して後に、
「十字架上で殺害されてしまったままのイエス」に
出会ったと記しています。そしてこの時の動詞の時
制が現在完了形であり、私たちの苦しみと共に今も
ある事を表している。パウロは歴史的な出来事、歴
史的実像としてイエス・キリストの十字架の可視的
な目撃者ではなく、パウロが「内側」で「実存的に」
受け止めた(存在)で、歴史的現象としていえば幻
(Vision)を見たという事であると書かれてありま
す。コリントの信徒への手紙一15章5節以下「キ
リストが現れた」→「キリストは見られた」復活さ
れたキリストを見た、解釈した、主観的に見たとい
います。
現代の科学でも医学でも明確に説明のつく「幻を
見るという体験」を大切にしたいということで「幻
視体験仮説」で聖書を読むといろいろな箇所が良く
理解できるという事です。「心の目をもってしか見
る事のできないものは、心の目をもって見るように
しましょう。」と結ばれています。
現在、テレビション(TELE-VISION)で離れた場所
の映像を見る事ができます。私たちは聖書を通して
時空を超えて信仰という心の目でイエス・キリスト
を見ています。イエス・キリストと相対しています。
「わたしは絶えず主に相対しています」
(詩編16編8節
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