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「三無主義」ペシャワール会中村哲さんが書かれたものを転載します。

たまに、ペシャワール会の理念などを尋ねられることが

あるが、冗談の通じる者に対しては、私は「無思想・無節

操・無駄」の三無主義である、と答えて人をケムに巻く。

第一の「無思想」とは、特別な考えや立山場、思想信条、

理論に囚われないことであり、どだい人間の思想などタカ

が知れているという我々の現地体験から生まれた諦観に基

づいている。ペシャワール会の発足した初めには、「○○主

義」の論客も居ないではなかったが、そのうち自然に離れ

ていった。自分だけ盛り上がる慈悲心や、万事を自分のも

のさしで裁断する論理は、我々の苦手とするところである。

例えば難民キャンプで、食うや食わずの子供の明るい笑顔

を、「哀れな人を助けなければ」と頑張っている外国人ボラ

ンティアの暗い表情と比べて見ると、私はひそかに忍び笑

いを催すのである。何も失うものがない人々の天真爛漫な

楽天性というのは確かにある。名誉財産はもちろん、いこ

じな主義主張を人が持ち始めると、それを守るためにどこ

か不自然な偽りが生まれ、ろくなことはないものである。

良心や徳と呼ばれるものでさえ、「その人の輝きではなく、

もっと大きな、人間が共通に属する神聖な輝きである」と

いうある神学者の説は領けるものがある。これを自分の業

績や所有とするところに倒錯があり、気づかぬ傲りや偽り

を生ずるというのが私のささやかな確信の一つである。

第二の「無節操」とは、誰からでも募金を取ることであ

る。乞食から取ったこともある。これは説明を要する。赴

任して程なく、私はことばの練習を兼ねてバザールをうろ

ついていた時期があった。時に乞食にも遭遇する。一般に

ペシャワールの職業的乞食はわりあい堂々としており、「右

や左の旦那さま」というような惨めたらしさはない。「コダ

ーイ・デール・コシャリーギー(神は喜びます)」と述べ、「出

せ」とばかりに手をさしだす者もある。私も暇であったか

ら、「人から施しを受けるにしては少し態度がデカいのでは

ないか、『済みませんが、いただけないでしょうか』くらい

の腰の低さがあった方が実入りが多いのではないかと問い

ただしたところ、ある乞食が案外まじめに説明してくれた。

「あなたは神を信ずるサルマーン(イスラム教徒)ではあり

ませんな。ザカート(施し)というのは貧乏人に余り金を投

げやるのではありませんぞ。貧者に恵みを与えるのは、神

に対して徳を積むことです。その心を忘れてはザカートも

ありませぬ」この乞食が高僧のような気がした。「私も人に

見捨てられたジュザーム(らい)の患者のために、はるか東

方から来てかくかくしかじかの仕事をしておる。ならば、

私もサルマーンで、これもザカートということになりはし

ないか」「そのとおり」「ならば、あなたも我々の仕事に施

しをしなされ。神は喜ばれますぞ」私がぬっと手を出すと、

乞食はちゅうちょなく集めた小銭をくれた。私はまさかと

は思ったが、つまらぬ議論に神を引き合いに出し、何か大

切なものを冒涜したような気がして畏れを覚えた。同時に、

純朴な人達だと思った。

以後、我々もこれを採用し、「貧しい人に愛の手を」などとい

う惨めたらしい募金はせず、「神は喜ばれます」とこそ言わない

が、年金ぐらしの人の千円も、大口寄付の数百万円も、等価の

ものとして一様に感謝していただくことにしている。現地の人

は心までは貧しくないのである。

第三の「無駄」とは、後で「無駄なことをした」と失敗を率

直に言えないところに成功も生まれないということである。い

つも成功のニュースを届けて喜ばせるのが目的となっては本末

転倒で、嬉しいことも辛いことも、成功も失敗も、共に泣き笑

いを分かち合おうというのである。そもそも、このような仕事

自身が、経済性から見れば見返りのないムダである。時に募金

のために活動をアピールすることがあっても、我々は自分を売

り渡す騒々しい自己宣伝とは無縁であったと思う。この不器用

な朴訥さは、事実さえ商品に仕立てるジャーナリストからもし

ばしば煙たがられた。だが、こうしてこそ、我々は現地活動の

初志を見失う事なく活動を継続できたのである。

「ペシャワール会報第33号1992年11月発行

三無主義中村哲」より引用

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