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「主イエスの祈りに支えられて」                    金子敬

今年没年後100年になるP.T.フォーサイス(1847-1921)はその名著「祈りの精神」(斎藤剛毅訳/ヨルダン社)の中に、「最悪の罪は祈らないことである」(13頁)と記しています。この言葉は私のクリスチャン生活に常に心にかかる言葉であり続けました。それは私自身「アーメン」と祈る自分自身の中で、真実(アーメン)な祈りには達していないとの思いがぬぐい切れないからです。神の似姿に創造されている人間(創世記1:27)、それ故、わたしたちは祈ることでこの「似姿性」を告白しているのですが、私のような不完全な者の祈りで良いのだろうか?との疑問はぬぐい切れませんでした。「聞かれた祈り」と思っていても本当に主イエス様に届いているのか、確信出来ません。では、このような祈りは不要なのか?と問われれば、「いいえ、だからこそ祈り続けるのです」と答えるほかありません。然り、祈りが聞かれていることはわたしたちの確信に左右されないからです。

 わたしたたちは大きな船に結ばれている小舟に譬えることが出来ます。小舟はしばしば波に翻弄されます。その時、わたしたちは大きな船に助けを求めて結ばれているロープをたぐり寄せます。小舟も大きな船に結ばれている限り安心です。しかし、実はこの時、たぐり寄せられているのは小舟のほうであり、大船を引き寄せているというのは錯覚です。これが主イエス様に結ばれているわたしたちの祈りの姿です。

 シモン・ペトロはイエス様を誰よりも愛しているお弟子さんです。イエス様に何か事があれば自分の命を差し出してでもお助けしよう、と心に決めているほどてす。しかし、イエス様の最期の場面でペトロはイエス様を3度も否んでしまいます。ペトロの強がりは打ち砕かれます。しかし、このような場面でも主イエスはペトロを覚えて祈っていてくださるのです。「信仰が無くならないように」祈っていてくださるお方がそこに在るのです。祈りの確かさは、わたしたたちの側にあるのではなく、どんな時にも祈っていてくださる主イエス様の側にあるということです。

フォーサイスは次のようにも記しています。「まず神が人間を追及し捜し求めたもうから人間は神を求めるのである。もし祈りが神に届き、神を動かしたとしたら、それはまず最初に神が迫り、祈りへと人に対する応答である。ここに祈りがある。はじめに人が神に祈るのではなく、神がまずそのひとり子をわれわれの代償として与えることによって、神が祈りたもうのである。贖罪の神髄は祈りである。それは、永遠のみ霊における神に対する偉大なキリストの自己犠牲である」(同上19-20頁)と。

主イエスはペトロに語りかけました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:31-32)と。

 わたしたちの捧げる祈りによってではなく、主イエス様の祈りによって歩むわたしたち。十字架という徹底的な弱さの中に自ら身を置いて、それ故、どんな弱さをも知り尽くされてとりなし祈ってくださっている主イエス様に結ばれ、その祈りに支えられているわたしたち、・・・何と幸いなことでしょう。

(かねこたかし/大牟田フレンドシップ教会員)

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