「信教の自由を守る日を迎えて」 泉清隆
宮田光雄著の「いま日本人であること」のあとがきの中に、クリスチャンに対して、次のようなことばがありました。「ヤスクニ闘争を担っていくことは、今、日本人として特に日本のキリスト者として、真のアイデンティティを確立する上で二つの課題を意味しているのです。一つは自由な思想や宗教の根を腐らせる<沼地>である日本の精神風土を国家権力によって肯定しようとする動きに反対して戦わなければならない。そこでは信教の自由・政教分離を主張することは日本社会が普遍的な価値に開かれるための制度的な条件を整える戦いである。これを外なる戦いと呼ぶことが出来る。(二つ目)これと平行して私たちは内なる戦いを遂行しなければならない。それは自己の精神構造そのものの変革を通して、普遍的価値に触発された真の日本人のアイデンティティをつくり出す課題に他ならない。この戦いは私たち一人一人が内側から真の超越者=普遍者の体験によって人間として変革されるということである。それは決して不可能ではない。」このことを私が言い換えますと、宗教の自由・信教の自由が保証されることは外側の闘い。もう一つは内側のもので、神の価値観に変えられることの闘いで、聖霊なる神によるものです。神の霊の働きによって私たちの価値観が変えられると言うことです。そしてそれは可能であると思います。具体的に差別しない偏見持たない者へと変えられると言うことです。人間を悪に陥れるものが何であるか分かってきます。1926年に時の政府は「宗教制度調査会」を設置して、日本の宗教と外国から入ってきた宗教などを基本から調査したことがありました。そして1899年には第1次宗教法案が議会に提出されましたが、この法案は仏教界よりの反対がありました。その理由は国家の干渉が強い。これは良いのですが、キリスト教と同列に扱っていることで反対しています。そして第2次宗教法案は1939年に可決されました。その時に韓国から朴(パク)長老が日本の議会に対して警告をする機会を求めて傍聴していたのです。そして3月24日に警告文を議場に投下しました。韓国のクリスチャンたちは神社参拝強制に苦しみぬいてその中で抵抗したのです。
私たちは日本の多くの人がクリスチャンになることを願って宣教をしています。
しかし、この国が「日本の国の宗教はキリスト教である。それ以外の宗教を信じることは許さない」と強制するならば、おそらく多くの人がクリスチャンにならざるを得ないでしょう。しかしそれは神の喜ばれることでしょうか。もし喜ばれることならば、最初から人間を神だけを信じて礼拝するように創られたことでしょう。しかしそうではありません。神に従うことも従わないこともできる自由を与えられました。ですから、その自由の中で神を礼拝することが尊いのです。神は私たちが強いられてでもなく心から自発的に礼拝する事を喜ばれるのです。ですから信教の自由は神の願われることです。
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