「幸い」と「幸せ」 金子政彦
金子政彦
「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」 (マタイによる福音書5:4 新共同訳)
「悲しむ人々は幸いである」とイエスさまはいわれます。私たちは普通、「悲しむ人々は不幸である」といわれるなら実感がわきますが、「幸いだ」といわれると「本当にそうかな?」と思います。これは、逆説的表現といわれます。世の中の人が「安心だ」、「平安だ」、「安泰だ」とその上っ面だけを見て喜んでいる時、その心の深い部分で空しさを覚え、本当の真実・内実が伴わないことを憂い、悲しんでいる人には、深い幸いがあるのではないか、という意味に取れば、このことばを語ったイエスさまの心は伝わってくる。そう解き明かしておられる牧師がいらっしゃいます。
ギリシャ語で「マカリオス」ということばが、日本語で「幸い」と訳されていることばです。マカリオスは「至福・幸い」という意味があり、本来は「神の恵みを受け取る人」という意味もあるそうです。ドイツの宗教改革者マルティン・ルターは、「マカリオス」を、「グリュクリッヒ」(幸い)と訳さず、「ゼーリッヒ」(救い)と訳しました。自分の幸福ばかりを考えているのではなく、他人の悲しい出来事に心を通わせる人には「救い」がある、というイエスさまの意図を受け止めたのだと思います。
ケセン語訳聖書で知られる山浦玄嗣(やまうら はるつぐ)さんという方がいらっしゃいます。山浦さんは、マカリオスを「幸せ」、「仕合せ」と訳しておられます。「幸い」と「幸せ」…同じ「幸」という文字が使われており、私たちが普段、使い分けることは少ないかもしれません。しかし、「幸い」という日本語には、「自己中心的な都合のよさを喜ぶこと」、「運まかせの好都合」というニュアンスが含まれます。それに対し、「幸せ」ということばは、元々「仕合せ」と書き、二つのものや事柄をぴったり合わせることを意味します。山浦さんは、イエスさまがおっしゃる「マカリオス」は、人と人とが互いに相手を大切にすること、そこから生まれるものを意味しているのではないかと考えます。 それが「仕合せ」であり、「幸せ」であると。イエスさまは、「目の前にいる人を自分自身と同じように大切にしなさい」(マタイ22:39)、「神の国(=神さまのお取り仕切り)は、あそこにある、ここにあるというものではなく、あなたたちの間にある」(ルカ17:21) とおっしゃっています。
ひとつの聖書のことばでも、人が自分に与えられたことばとして向き合うとき、その文脈から、さまざまなイエスさまのメッセージを豊かに受け取っていることが分かります。私たちが聖書を読んで「本当にそうかな?」と思うとき、一人ひとりに向けられたイエスさまからのメッセージが、今まさに届こうとしているのかもしれません。
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