「愛される存在」 金子政彦
対をなす言葉として、「絶対」と「相対」があります。「絶対」とは「他に比較するものや対立するものがないこと」、「相対」とは「他との関係性、位置関係や比較のこと」をいいます。
マタイによる福音書にある「ぶどう園の労働者」のたとえ話で、ぶどう園の主人は、長く働いた人にも短く働いた人にも等しく賃金を支払って、不平を申し立てる人に次のように言います。『いいかね。私はあなたに何も悪いことはしていない。あなたは一日一デナリで働くことを承知したはずだ。文句を言わずに、それを持って帰りなさい。私はだれにでも分け隔てなく払ってやりたいのだ。自分の金をどう使おうと自由だろう。私がほかの者たちに親切なので、あなたは腹を立てているのか。』(リビングバイブル) 人には、一人ひとりに、他者と比較できない価値があると聖書は記します。その価値は、どこからくるのでしょうか?
最近、イシドロ・リバスというカトリックの司祭が1966年に著された『日本人とのおつきあい』という本を読みました。リバスさんはスペインから日本にやってこられた方でありますが、彼の日本語の文章はとても自然で、分かりやすく、キリスト教になじみが薄い人の心にも響くと思います。出版から55年経っていますが、内容はいささかも古びていません。リバスさんは、自己を絶対化した人間の特徴として、5つのポイントを挙げています。①愛と素直さを失っている。②自分の思いだけが正しいとする。③他人の意見をきちんと聞いていない。④他者を弾圧している。⑤他者を愛の対象として見ていない。(他者を自分の野望の道具として見ている。)
旧約聖書の語る「原罪」は、「人は神のようになってはいけない」と警告されていたにもかかわらず、人が「神のように」善悪を知るものとなりたいと思い、禁断の木の実を食べてしまうことから始まります。人は、神によって「土のちりから」創造された存在であるにもかかわらず、絶対者(=神と同等の存在)になりたがりました。自己絶対化とは、神ではない人間が、神から離れて、あたかも神のようにふるまうことです。リバスさんは、以下のように指摘しています。「自己絶対化しても結局、人は絶対者ではないから、やがて自分も崩れてきて、挫折と自己否定に陥るときが必ず来ます。」
私たちの傾向、私たちの「罪」の本質は、神の意志や神の存在を無視して、自分自身を絶対視し、神や隣人と自分自身を相対的に見ないことです。「神の意志」とは何でしょうか?土のちりから創られ、命の息を吹き込まれた人間は、神の奴隷として、虐げられる存在として生み出されたのでしょうか?
聖書は、そうではないと告げます。私たちは、愛される存在として神に創造されました。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」といわれます。私たちは、イエス・キリストを神の子であると証しする聖霊を吹き込まれ、神の愛によって、お互いに愛し、愛される存在です。そこに、一人ひとりに与えられた「愛される存在」としての絶対的価値があります。イエス・キリストに触れて、神の存在を確認するとき、人は、自分が愛される存在として生み出されたことを、自分自身のこととして「しみじみと」知ることになります。それは、喜びであり、感動です。
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