「沖縄本土復帰50周年」 泉清隆
日本バプテスト連盟の沖縄、那覇新都心教会を訪問した
時に、日本基督教団佐敷教会の平良修牧師が本土から訪問
した5名の者の為に話しをしてくださいました。最初に言
われた言葉をはっきりと思い出します。「皆さん『沖縄独立
論』というのをご存じでしょうか」と切り出されました。
沖縄の歴史は琉球王国に始まり、周辺国と交易を行い平和
の島でした。しかし最初の侵略はヤマトの薩摩藩の侵攻で
した。そして琉球王国を廃絶して沖縄県設置という琉球処
分、第二次世界大戦での壮絶な地上戦、集団自決させられ
た出来事、対日平和条約による沖縄切り捨て、1972年の沖
縄返還、沖縄本土復帰も平良牧師は琉球処分であると解釈
されています。私はヤマトの日本から侵略されて、植民地
化された状態が今も続いていると思いました。状況は違っ
ても大国が弱小国を踏みにじっている状況です。
平良牧師は「沖縄にこだわりつづけて」という本を書か
れています。その中に「永遠の課題としての『沖縄問題』」
という箇所があります。ここは基督教団内の事を話されて
いるのですが、鋭い人間の問題を取り上げておられます。
以下引用。
「沖縄の施政権の返還がなされても、それで沖縄問題はけ
っして終わりはしません。たとえ、政治的に私たちの望ん
でいるような理想的な形で沖縄の返還がなされたとしまし
ても、沖縄問題はまだ残っているはずであります。それは
何かと申しますと、なぜ沖縄がこれまでこのようなみじめ
な生活を余儀なくされたか、何がそれをなさしめたかとい
う、人間の深い所の問題と関わってくるからであります。
人間を人間として尊ぶことができない、そういうわれわれ
の罪性と関わっているからであります。あらゆる不平等性、
あらゆる差別、これは単なる政治の問題ではない、人間の
問題です。私は人間の尊厳ということをイエスによって深
く深く教えられています。たとえば、あのドイツのヒトラ
ーは、本当に無残なことを致しました。本当に悪魔的な人
間でありました。そのヒトラーを倒すために、ボンヘッフ
ァーという牧師は立ち上がりました。大多数の教会がヒト
ラーと行動を共にした中にあって少数の者が抵抗しました。
そしてボンヘッファーは、ヒトラーを倒すことが自分のク
リスチャンとしての良心をかけた最後のギリギリの決断で
あると考えたのです。彼は暗殺行動に移りました。しかし
計画は失敗し、ボンヘッファーは処刑されました。私はこ
う思います。かりにあの暗殺計画が成功し、ヒトラーを倒
したことによって何百万という人が救われたと仮定しまし
ょう。何百万はおろか何千万でもいい、何億でもかまわな
い。そうした人が救われたといたしましょう。その場合、
それではヒトラー1人を倒したことに問題はないのかと言
うと、問題はあります。問題は残ります。世界の30億の
人間を救うために、一人の人を倒す、これは数の計算では
できないものがあります。どんな正当な理由も、一人の人
を倒すために十分に正当な理由ではありえない、と私は考
えています。やはり問題は残る。つまり、どんなに悪魔的
だと言われるような人間であっても、彼は神が与えた人間
の尊厳を持っている、私はそう信じております。
なぜ人間が尊いのか。これは私たちの実力でもって尊いのでは
ない。イエス・キリストによって神に覚えられている、神の愛
の対象である、神が与えたもうた人間の尊厳を持っている。で
すから、どんなに悪魔的になっても、非人間的になっても、そ
れでもなお、人間は尊いんだと言えるものを、私たちはキリス
トからもらっているのです。それが人間です。にもかかわらず、
そういう尊い人間を尊い人間として扱えない(扱うという言葉は
本当は物に対して言う言葉でいけないのですが)、尊い人間とし
て考えられない、交われない、交わってこなかったという、こ
ういう私たちの罪性が問題なのです。この日本国の罪性が沖縄
をして苦悩せしめているのです。この問題が沖縄問題の根底に
あります。ですから、日本基督教団が、また沖縄教区が、沖縄
問題を担う場合に、主よ、『私たちの罪を赦したまえ』というこ
の憾悔がなかったとしたら、また私たちは人間を人間として大
事に尊重しませんでした、そのことによって自分自身も尊重し
ませんでした、申しわけないという憾悔がなければ、教会の姿
勢としてこれは間違っております。沖縄の隣人に対して、日本
基督教団という教会が何をしてあげたか、何をしてあげられな
かったという、これが神の前の日本基督教団の審きのポイント
になるのであります」。
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