「赦された罪人としてのしあわせ」 金子政彦
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人
たちのものである。」(マタイ5:3)
私たちは、立派に善行を積み重ね、神さまによし
と認められて、しあわせになりたい。将来は、天国
に招かれて、永遠に憩いたい。大昔から、多くの人
間がそう願い、努力してきた。現代の私たちも、心
のどこかで、近い思いを抱くことがある。
もしも、それが真実であれば、イエスさまは「心
の豊かな人は幸いである」とおっしゃっただろう。
しかし、イエスさまは、真逆をいわれている。「心
の貧しい人は幸いである」と。心の貧しい人とは、
「霊に関して破綻している人」という意味だそうだ。
「霊」とは、ギリシャ語で「プネウマ」といい、天
地創造の時、神さまが、土から作った人間に命の息
を吹き込まれたときの「息」に通じるという。それ
を踏まえて、「生活においても、信仰においても、
生きる力が弱い、頼りなく、望みなく、心細い人は
しあわせだ」と意訳しておられる人もいる。そんな、
生活のさまざまな部分が八方破れで、どうしようも
なく行き詰っている人に対して、イエスさまは「天
の国はその人たちのものである」とおっしゃる。天
の国とは、「神さまのお取り仕切り」という意味が
あるそうだ。そうすると「神さまの懐にしっかりと
抱かれるのはこの人々だ」いう意味で読み取れる。
イエスさまは、ここで、「私たちの現状がどうであ
れ、神さまは、私たちをしっかりと受け止めて下さ
る」ということを言っておられる。イエスさまのこ
の言葉を聴いたのは、当時、罪人とされた人々、病
気や生活に苦しむ貧しい人々だった。イエスさまは
「私のところに来なさい」とおっしゃる。「私のも
とにきて、神さまの前で生きる者となりなさい」と
おっしゃる。神さまは、私たちが、貧しく、罪深い
まま、ご自分の懐に受け止めて下さる。それがしあ
わせなことなのだと。
しかし、実際の生活では、食べ物の心配、お金の
心配、健康の心配、家族の心配、仕事の心配、学業
の心配、人間関係の心配、ご近所付き合いの心配な
どなど、多くの心配事がある。心配事を解決するた
めに、私たちは、自己責任でなんとかしようとする。
なんとかがんばれたとき、他者と比較して「私の方
が少しはましだ」とうぬぼれてしまう。また、思っ
たようにがんばれないとき、「こんな私には、価値
がない」と絶望してしまう。私たちは、自分自身の
価値観で、頂きものであるはずの命・存在を、あた
かも自分勝手にできるもののように扱ってしまう。
神さまから頂いた命の息が、ゆらゆらと揺らいでし
まう。そんな私たちもまた、心が貧しく、罪深い。
私たちは、神さまに対して、そんな自分自身の本質
的な貧しさ、罪深さを、率直に認めたい。本質的な貧
しさ、罪深さは、学業で成果を上げようが、仕事で成
功しようが、お金持ちになろうが、安楽な生活を得よ
うが、地位や名誉を得ようが、何ら変わることがない。
残念ながらクリスチャンになったとしても…である。
私たちは、赦された罪人であることを忘れないように
したい。私たちは、赦された罪人同士、お互いに謹ん
で、喜び合い、助け合って、神さまの前で生きるよう
に、イエスさまによって招かれている。私たちの生き
る力は、他者と助け合うために与えられている。私た
ちが助け合う時、生活の必要は満たされ、神さまのお
取り仕切りを共に喜べるようになる。
「言っておくが、義とされて家に帰ったのはこの人(自
分が罪人であることを認める徴税人)であって、あの(自
分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している)
ファリサイ派の人ではない。」 (ルカ18:14)
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