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『こわいをしって、へいわがわかった』 金子純雄

多くの方が先月23日の「沖縄慰霊の日」の追悼式

をTVや新聞等でご覧になったと思います。約3ヶ月

の熾烈な戦いの末、沖縄の人口の約4分の1に相当

する20万人超の人々の尊い生命を代償に沖縄戦は終

結しました。直接、戦闘に参加した人々だけでなく、

多くの民間人がガマに追い込まれて火炎放射器など

で焼き殺され、手渡された手榴弾で愛する肉親と共

に自死したり、崖から海に身を投げて集団自殺に追

い込まれるという凄惨な出来事については様々に伝

えられています。圧倒的な戦力を誇る連合軍側も2

万人余の将兵の命が、この3ヶ月間に無残に失われ

ています。

標記の言葉は、沖縄の日本復帰50年という記念す

べ今年の「沖縄慰霊の日」に国籍や軍人・民間人の

区別なく24万人余りの犠牲者の名が刻まれた「平和

の礎」がある沖縄本島の糸満市摩文仁で行われた「沖

縄全戦没者追悼式」の席上で朗読された小学校2年

生の徳元穂菜(ほのか)さん自作の詩の題です。新聞

などでも説明されていましたが、家族と共に宣野湾

市の美術館を訪れ、丸木画伯夫妻が1984年に制作し

た「集団自決」や「戦場を逃げ惑う人々」を描いた

絵を見た時の気持ちが、素直に綴られていました。

「きゅうにこわくなっておかあさんにくっついた。

あたたかくてほっとした。これがへいわなのかな」

「おねえちゃんとけんかした。おかあさんは、二

人の話を聞いてくれた。そしてなかなおり、これ

がへいわなのかな」「せんそうがこわいからへ

いわをつかみたいずっとポケットにいれてもって

おく。ぜったいおとさないようになくさないよう

にわすれないようにこわいをしって、へいわが

わかった」

沖縄戦当時、中学校に入ったばかりのわたしは、

沖縄の戦況や、その意味することを知らず、また考

える力もありませんでした。

厳重な報道管制のもとに、赫々たる戦勝報告はラ

ジオで勇壮な軍艦マーチの演奏と共に聞かされ、「味

方の損害は軽微」と報じられるのが常でした。しか

し、開戦直後の勢いが次第に衰え、国内の主要都市

への空襲が重なり、「波打ち際作戦」と称して、中

学校では竹槍の練習に余念がない日々を過ごすよう

になると、さすがに戦局の逼迫を感じずにはおれま

せんでした。そして、福岡大空襲で家を焼失し、病

身の父を抱えて一家5人、父の郷里に着のみ着のま

ま、身を寄せることになります。

しかし、それでも戦争が怖いという感覚はほとんどあ

りませんでした。「聖戦」だと言い聞かされ、「大君(天

皇)の辺にこそ死なめ、顧みはせじ」と教えられていた

からでしょうか。

戦争の実態も知らぬままに、聖戦意識に取り込まれ、

酷い死の実感もなく、美化していたと思います。「集団

マインド・コントロール」に支配されていたのです。

人にとってかけがえのない「生と死」を如何なる理由

であっても、他人に、まして国家権力に手渡してはな

りません。「こわい」という正常な感覚から始まる「平

和(平安)」を身に着けたいと思いました。

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