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インシャッラー 人間の分を知る謙虚さ 中村哲

現地では、未来の事を述べるときに、必ずといえる程イ

ンシャッラー(神の御心ならば)」という言葉が登場する。

「荷物は○月○日までに着くか」と尋ねると、「インシャッ

ラー、着くでしょう」と答えられ、しばしば到着しない。「こ

の仕事を今年中にはやり遂げよう」と決意を促せば、「イ

ンシャッラー、頑張りましょう」と気勢をそがれ、大抵は間

に合わない。

年齢もそうで、我々が病院で患者に「おいくつですか」

と聞けば、一部の知識層を除けば、「だいたい…」で始ま

って、20歳・25歳・30歳と五年刻みで述べられるのが

普通である。時には「見りゃ分かるだろう」とからから笑

う者さえいる。誰も正確な年齢を知らない。几帳面な人

間には耐えられぬ世界である。

かくて「インシャッラー」は日本商社マンの敵となり、過

密スケジュールでやってくる旅行者やボランティアを悩ま

せる。「またお会いしましょう」と言って「インシャッラー」と

答えられ、怒る者もいた(実はこれは普通の挨拶であ

る)。そこで、大抵の日本人はこれをいい加減さの代名

詞と誤解しているが、決してそうではない。

ペシャワールやアフガニスタンに居て、人々の生活に

入ると、このインシャッラーが美しい響きを持っていること

が解る。そこには、人間の分をわきまえる謙虚な祈りが込

められているのである。距離の概念でも、山岳地帯では

「普通歩いて三日、遅い者なら四日」といった表現が正

しいし、予期せぬ事態も多いからだ。現実に、「またお会

いしましょう」と別れた人間が直ぐに帰らぬ人ともなる。

二日予定の山越えが、天候次第では四日になる。フライ

トが気象の変化で一週間延びることは山地では稀でな

い。何が起きて不思議はない世界である。確約はできな

い。年齢もよく考えれば、人により成長・老化の個人差が

あるのは当然で、一年や二年の違いに目くじらを立てる

事はない。

「急ぐほど被害が多い」と現地では言う。私の経験で

もそうで、あまり急いで正確さにこだわると疲れるばか

り、成果はさして上がらない。それどころか大局を見失っ

て大失敗する。さりとて彼らが約束も守らず、いい加減か

と言えば、絶対にそうではない。いったん心に決め、誓い

を立てれば、何年かけても我慢して待ち続ける。私は幸

いにして田舎の住民から裏切られた経験を持たない。

日本人は短気で性急である。これが長所でもあり、欠

点でもある。ペシャワールには1988年以来、多くのボラ

ンティアがやってきたが、少なからぬ者が疲れて帰ってゆ

く。大河のようなおおらかさを体得するのに相当時間が

かかる。成功はもちろん心地よいが、失敗もまた良し、努

力の結果なら悪しからず、別のやり方で繰り返せばよ

い。さらに、その時は成功と思っても、長い目で見れば良

いか悪いか分からない。

困難を乗り越えて現地にきたボランティアの方々に失礼

かも知れぬが、日本人に欠けるのはこのおおらかさである。

はた目で見れば、緩やかだが深く静かに流れる川面で、水

しぶきを上げて騒がしく流れにあらがう様は、正直、気の毒

である。観念して神の御心に委ねるべし。どれほど豊かな世

界が広がるか計り知れない。現地との基本的な齟齬(そご)

は、このインシャッラーの精神にある。

逆に日本に帰ると私は窮屈である。強迫的な正確さは耐

え難く、瑣事(さじ)を針小棒大にあげつらうのは異様に見え

る。列車が一時間でも遅れようものなら、乗客は怒り狂い、

マスコミは大騒ぎする。金さえ出せばトコロテン式に望みの

物が手に入り、意のまま気軽に、万事が運ぶものとの錯覚

が生まれる。日本列島の住民の立場に立てば、そうしなけれ

ば生きてゆけないので仕方がないが、せちがらい世の中に

なった。この流れに乗らねば誰かにしわ寄せがくる。だが、な

ければないで済むものが余りに多いことを、少なくとも知る

べきである。それで我々が「進歩している」と思うのは大間

違いである。

*西日本新聞「辺境の診療所から」第17回(1993年5月14日)より

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