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空気を読む「宗教」とキリスト者                   金子純雄

先日、今日のメッセージに関連して、昔、読んだイザヤ・ベンダサン(山本七平)による「日本人は水と空気と安全はタダと思っている」を思い出し、手許にその本が見当たらないので、パソコンで検索してみたら、西南学院大学人間科学論集所載のF教授の表題の論文に目が留まりました。2018年に発表されたものですから比較的新しく、上記のことが載せられていた「日本人とユダヤ人」が出版されたのは、確か1970年頃だったと思いますが、識者の間では、その著作を巡って様々な評価や論評が繰り返されてきたようです。その是非はともあれ,山本氏については、批判的な受け止め方もあり、「日本教の唱道者であり、キリスト教とは無関係」と言う人も少なくありません。

 此処で詳細をお伝えするスペースも力もありませんし、少し飛躍するようですが、わたしは戦前のキリスト教会が、結果的に神聖天皇制と軍部独裁に引きずられて戦争協力への道を歩まざるを得なかった姿に、キリストを主と告白するキリスト者、また教会が、無意識?のうちに「空気に」引きずられてしまった非主体的な姿―それこそ、自らが置かれた場(状況)の空気に馴染み引きずられてしまった非主体的な一面があったのではないかと思わされています。

 立派な軍人になって「天皇とお国のために身を捧げる」ことを最高の美徳として教え込まれていた子供時代でした。クリスチャン家庭に生まれ育っても、それ以外の選択は余りなかったと今にして強く思います。

 「ただ」だと思う水や空気、そして安全に無自覚、無反省に身を投げかけるのではなく、主体的、自覚的な生き方を身に着けたいと思います。

 9月は「教会学校月間」にあたり、教会では、この春に採択された古賀教会の「信仰告白」について学ぶことになっています。「わたしたち」の、そして「わたし」の主体をかけた「信仰告白」の学びと確認の時として大切にしたいと思います。


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