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十字架上のイエスの叫び (マルコによる福音書15:33~41)

  • 2015年6月6日
  • 読了時間: 2分

私たちは、自分が苦しむときに、心の底で「この苦しみが誰にわかるか」と主張する「自己」があることを否ません。そこには苦しみを受けることを不当とする他者への訴えが隠されています。そして、救いの手が差し伸べられることを当然のこととして期待しているのです。ところが、もし、人々から遺棄され、全く見捨てられるとすればどうでしょうか。諦めるのでしょうか、それとも自暴自棄になるのでしょうか。

一見、救いがすべて閉ざされているように見える時、私たちが見るべきこと、聴くべき言葉があります。それが、十字架に架けられたまま、ご自分を救うことができない主イエスであり、そこで発せられた「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)とのイエスの叫びです。福音書記者マルコは、この一言だけを十字架上のイエスの言葉として記録するのですが、真にこの叫びは暗黒の中に置き去りにされた者の叫び、神に見捨てられた者の叫びであります。

マルコはその福音の初めとして、イエスが悔い改めのバプテスマを受けられるところから書き始めています。罪の無い神の子イエスが、罪人の側に身を置く、これがイエスの受けられたバプテスマの意味でありましょう。そして、本来、罪人が処刑されるべき十字架に自らを明け渡し、神から見捨てられることを、唯一経験されたのです。この壮絶な叫びにも神は沈黙を押し通します。イエスは完全に見捨てられたのです。それゆえ、最早、私たちが「なぜ私を見捨てるのですか」と叫ぶことは無いのです。見捨てられる苦しみからの叫びは、あの十字架上で、人類史上、唯一回かぎりで完結したからです。これが神の子イエス・キリストによる福音です。

私たちも苦しみ、叫びます。それで良いのです。パウロが、物分かりの悪いガラテヤの人たちに向かって、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」(ガラテヤ3:1)と叱咤するのは、苦しみの極みでさえも見捨てられていない私たちへのメッセージなのです。然り、十字架上のイエスにこそ救いがあるからです。

                                                 TK生

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